たし、手は秋の夕方の電線のようにふるえていた。フロウレンスの歯科医は自分に話しかけられた場合にだけは決して答えなかった。そして彼は誰のとも知れない一本の脱毛に興味の全部を集中していた。彼はそれを卓子《テーブル》の琺瑯《ほうろう》板の上に押さえて、ペン・ナイフで端から細かく刻む仕事に没頭していた。彼はまたタキシイドの胸のポケットへ革命的な襟飾《えりかざり》を押し込んで、それを素晴らしい変り色の絹ハンケチであるかのごとく見せる術にも成功していた。じっさい、もし一度彼がそのネクタイであることを忘れて、ぽけっとから引き出して口の周囲を拭きさえしなかったら、私たちはみんないつまでもそれをハンケチであると信じ込んでいたろう。
報知蜂《ニュウス・ビイ》紙の特派員は水蜜桃のような少年だった。彼は手の平に金いろの細毛を生やしていた。そして去年の暮れマドリッドの古い劇場が焼けたとき、そこに居あわせたと言ってしきりにその時のことを話した。
『火よりも煙りが恐ろしいのです。それはまるで古帽子から燻《くす》ぶる反動思想のように――。』
しかし彼の聴手はフランシス・スワン夫人だけだった。夫人は仮装舞踏会に出る
前へ
次へ
全66ページ中50ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング