明日になろうとしていることを私は歯科医の腕時計で読んだ。
 そして独逸《ドイツ》人に言った。
『僕はオテル・エルミタアジュのあなたの部屋の番号を知っています。三十六号でしょう? 自分は妻と別々の部屋を取る習慣だなどとは仰言《おっしゃ》らないでしょうね。』
 ところが彼の驚愕が私を驚愕させたのである。しかも彼のは覚えのない罪を責められる人が不思議そうに示す種類の驚愕だった。
『妻ですって? あなたは人違いをしている。悲しいことだ。私は結婚するほど旧式でもないし、オテル・エルミタアジュはちょっと外部から見たことがあるだけです。』
 私はじぶんが単なる即席の思いつきでこの個人的な会話を切り出したのではないという立場を守護するために、すこしばかり顔を赤くして粘着《パアシスト》した。
『あなたに関する僕の知識はそれだけではないのです。僕はあなたがコロンの製鋲《せいびょう》会社の社長であることも、亜米利加《アメリカ》から妻楊子《つまようじ》を輸入した本人であることも、そしてそのために何艘の英吉利《イギリス》貨物船を傭船《チャアタア》しなければならなかったか――すっかり知っているつもりです。』
『じつに恐るべき独断だ!』
 独逸《ドイツ》人は卓子《テーブル》を叩いて酒杯《グラス》にシミイを踊らせた。
『私は単なる正直な映画技師です。』
 私は黙った。これ以上主張をつづけることはこの肥大漢と私とのあいだの決闘に終りそうだったから。しかし、それにもかかわらず私は、自分のほうが正しいことを確信していた。なぜなら、現に今夜の若い時間に、彼の妻のいが[#「いが」に傍点]栗頭の波斯《ペルシャ》猫がわざわざ私に指示してこの男が良人《おっと》であると証言したではないか。
 ヴィクトル・アリ氏の大笑いが一同の注意を要求した。
『解ってる、わかっている!』
 彼は眼と眼の中間で両手を泳がせていた。それは明かに可笑《おか》しさのあまり駈け出して来ようとする泪《なみだ》を睫毛《まつげ》の境いで追い返すための努力を示していた。ばらばら[#「ばらばら」に傍点]の言葉でアリ氏は唱え出したのである。
『――あの人はハンブルグの荷上《にあげ》人夫ではないのです――あの人は毎朝熱湯の風呂へ這入って自分の身体と一しょに茹《ゆ》で上った玉子をそのお湯のなかで食べるのです――それから、あの人のそばへ寄るとリンボルグ、じゃなかった、ラックフォルト乾酪《チイズ》のにおいがする、と言いましたね。それから、それから――あの人の足の小指は赤い蘇国毛糸の靴下のなかで下へ曲っている――こうでしたね?』
『それはどういうお話しでしょう!』
 フランシス・スワン夫人が将校のようにずぼん[#「ずぼん」に傍点]のポケットへ手を入れて訊いた。

     7

 ちょうどそこへ、髪油《かみあぶら》を手の序《ついで》に顔へも塗ったような、頬の光った楽長が近づいて来て何かお好みの曲はございませんでしょうかと質問したので、私が一同を代表して「ハリファックスへ行くように」と勧告した。すると突然私の鼻さきに菫《すみれ》の花が咲いた。それは安価香水のにおいと田園の露を散らして私の洋襟《カラア》を濡らした。曲馬団の少女のようなモナコの風土服を着た花売女がわざと平調な英語でその一束をすすめていた。これは私にすこし考えるところがあって買うことにした。私は女の残して行った菫の花を嗅《か》いでみた。それにはアルコウルの疑いがあった。そして不自然にまで水をかぶって重かった。私は巴里《パリー》モンマルトルのキャバレLA・FANTASIOを思い出した。そこでは売った花束を、酔った所有者が席を離れて踊ってるあいだに、その花売娘が廻って来てこっそり[#「こっそり」に傍点]持って行ってしまうのである。そしてそれに水をかけ、香水を振ってまた売りに来るのだ。こうして同じ花が一晩に何べんとなく新装して売りに出される。そして人は自分の買った花束を朝までに何度買わされるか知れないのだ。
 ここのもそれではないかと私は思った。で、私は花売女に盗まれないように卓子《テーブル》の上で菫の束を握っていることにした。が、それでも不安だったので、私は妻の口紅棒《リップ・ステック》を借りて花を結んである紫のりぼん[#「りぼん」に傍点]の端へ|X《クロス》をつけた。そしてようよう安心することが出来た。
 みんながヴィクトル・アリ氏の口を見詰めていた。そこからは露西亜《ロシア》煙草のけむりと一しょに言葉がぞろぞろ這い出していた。それらが空中でいろいろに繋《つな》がって、こういう一つのモンテ・カアロ風景を作り出していた。しかし、これは私があんまりロンシャン競馬場の泥みたいな土耳古珈琲《トルココーヒー》にコニャックを入れ過ぎたので、その御褒美《ごほうび》に、キャフェ・ド
前へ 次へ
全17ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング