会話を愛する人々のために出来るだけ交響団から離れた、光りと影の多い「一部落」だった。そこでは酒杯《グラス》と煙草と煙草の灰と、写真現像液で手の赤い独逸《ドイツ》人、フロウレンスの歯科医、ウィインの毛皮商、グラスゴウのニュウス・ビイ紙特派員、フランシス・スワン夫人、ヴィクトル・アリ氏、それから私と私の妻とが、みんな一時にしゃべり出そうとしてはぶつかり合って、急にみんな控えて黙って、すると暫らく誰も何も言わないものだから今度はみんなで大笑いをしていた。そんなことばかり繰り返していた。それぞれ国際的に面白い顔をしているというような理由から、一しょにキャジノを出ると直ぐいつからともなくこれだけの人が集まったのだった。私たちはソルボンヌ附近の下宿の大学生のように快活と卓子《テーブル》と経済を持ち寄って誰の壜からでも飲んでいいことに決議した。が、給仕人の注意を捉えて、何か証文するのは多くウィインの毛皮商だった。彼は今夜好運の女神が自分のうえに微笑《ほほえ》んだから、その祭典を挙げるのだと説明した。しかし、そうでなくても彼はしじゅう祭典をあげているらしかった。彼の鼻は隣りの食卓の酒まで嗅《か》ぎ分けたし、手は秋の夕方の電線のようにふるえていた。フロウレンスの歯科医は自分に話しかけられた場合にだけは決して答えなかった。そして彼は誰のとも知れない一本の脱毛に興味の全部を集中していた。彼はそれを卓子《テーブル》の琺瑯《ほうろう》板の上に押さえて、ペン・ナイフで端から細かく刻む仕事に没頭していた。彼はまたタキシイドの胸のポケットへ革命的な襟飾《えりかざり》を押し込んで、それを素晴らしい変り色の絹ハンケチであるかのごとく見せる術にも成功していた。じっさい、もし一度彼がそのネクタイであることを忘れて、ぽけっとから引き出して口の周囲を拭きさえしなかったら、私たちはみんないつまでもそれをハンケチであると信じ込んでいたろう。
 報知蜂《ニュウス・ビイ》紙の特派員は水蜜桃のような少年だった。彼は手の平に金いろの細毛を生やしていた。そして去年の暮れマドリッドの古い劇場が焼けたとき、そこに居あわせたと言ってしきりにその時のことを話した。
『火よりも煙りが恐ろしいのです。それはまるで古帽子から燻《くす》ぶる反動思想のように――。』
 しかし彼の聴手はフランシス・スワン夫人だけだった。夫人は仮装舞踏会に出る士官学校生徒のような、身体《からだ》の輪廓に喰い込んだ水色の男装をしていた。それはあの護謨《ごむ》糸で自動的に中箱の引っ込む仕掛けの、ミラノ製の Italianissima 燐寸《マッチ》のような、非常に役立つ、寸分の隙《すき》もない効果だった。夫人によれば、近代社会の大きな間違いは、男女の性別を不可侵の事実として、これにだけは手をつけようとしないところにあった。なぜか? われわれは生理学を矯正して優生学を案出したではないか。そのほか大学の講座はあらゆる反逆の科学で重いのだ。研究室の窓からは既に手のつけられないほど増長してしまった人造人間が二十三世紀の言語で通行の女にからかっている! うんぬん・うんぬん・うんぬん。
 ヴィクトル・アリ氏は鳩撃ち大会が済むまでは禁酒していると言ってグラスを無視した。そして必ず一度灯にすかして見てから水を飲んでいた。
 キャフェは博奕場のこぼれで溢れていた。私達の隣のテエブルには、地図で見ると上の端のほうに当る国から来たらしい二人の青年が、皮肉な眼をして「金髪《ブロンド》」を飲んでいた。スウプのなかへ麺麭《パン》を千切《ちぎ》って浮かすことの好きなミドルエセックス州の代言人《ソリシタア》や、絶えず来年度の鉄道延長線の計画を確かな筋から聞き込んだと吹聴しているプラハの土地利権屋や、コルセットの留金《とめがね》が引き釣ってきっと靴下の上部に筋切れがしてるに相違ない巴里《パリー》下りのマドモアゼル――でみ・もんでん――や、南|仏蘭西《フランス》の汽車中に英語の掲示がある・ないで今大議論を戦わしている亜米利加《アメリカ》の老嬢たちや、こういう夜と昼をはき違えた群集がめいめい他人の言葉を押し返してそれに勝つ必要上ほとんど絶叫に近い大声を出しあっていた。そこにはまた交通巡査のように冷静な猶太《ユダヤ》人の給仕長があった。通路に屯営《とんえい》して卓子《テーブル》の空《あ》くのを狙っている伊太利《イタリー》人の家族|伴《づ》れがあった。そのなかの娘は待ってる時間を利用して立ちながら絵葉書を書いていた。銀盆に電報を載せたボウイが「いつものテエブルにいるいつものムッシュウ」のところへ走っていた。伊太利《イタリー》人の娘と衝突して両方が笑った。ここから一つの恋が噴出すべきはずだと私は観察した。這入って来る人ばかりで誰も出て行く人はなかった。ちょうど今日から
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