ュ・パリの空気が私にだけ見せてくれた蜃気楼《しんきろう》だったかも知れないのである。
 私は菫を逃がさないように注意しながら、アリ氏の物語に追いついた。
『――それはまだあのルイという貨幣――二十五|法《フラン》――が仏蘭西《フランス》にあった頃ですから、大戦前のことでした。
 いつの間にかシリア生れのひとりの若い男が、暇な時のキャジノの役員たちのあいだに話題に上っていました。その男は流行|上履《うわばき》のような皮膚に端麗な眼鼻をもった美青年でした。が、彼が評判になったのはそのためではありません。毎晩決まったルウレット台のきまった椅子に坐り込んで、最小額の十|法《フラン》ばかり賭けつづけていたからでした。いや、きまっていたのはそればかりではありません。彼の賭ける数も一つに限られていました。それは二十三でした。なぜ彼が23を選んでそんなに固執したかというと、その理由は彼にとって到って簡単です。当時かれは二十三歳だったからです。一体博奕場へ出入りするもののあいだには、数に関する妙な脅迫観念のようなものがあって、銘々がめいめいの「数」を大事に持って守っています。それは或る人にとっては生れた日であったり、または名前の綴りの字数であったり、その由《よ》って来たるところは千差万別ですが、みな自分の数字を限りなく神聖なものとして、それに絶対の信を置いていることは同じです。で、「23」もそういうわけで、いつも二十三へばかり賭けていたのでした。こうしてキャジノの内部で「23」が彼の代名詞にまで有名化した時です。
 その晩かれは例によって「自分のルウレット台」で十|法《フラン》の最小限度を二十三に張り抜いていましたが、ふと気がつくと、何かしら異状に冷たい固いものがかれの大腿《ふともも》を横から押しているのです。何だろう?――「23」は下を覗きました。御存じの通りルウレット台の下には何の仕掛けもありません。が、彼はそこに無意識らしく迫っている隣の女の脚を発見したのです。
 その女というのは、高級売春婦以外の何者にも踏めない、三十あまりの、それでも、見たところはたしかにパリジェンヌのようでした。彼女は鋼鉄色の薄い夜会服を着て、廻転盤と「白い丸薬」との機会的な接吻に眼を据えているだけで、たといもう一度あの大戦がぶり返して来ても、自分だけはこのままにしておいてもらいたいと言った様子でした。ですから、もちろん無意識でしょうが、女の脚は夢中のあまり椅子から乗り出して、「23」の大腿部にしっかり触れているのです。ここで若いシリア人は、盤面の二十三に対する愛着以上の興味を感じなければならなかったはずです。なぜ? 地下鉄《メトロ》の雑沓で女の脚が押して来る。押された男は、それが地下鉄会社が乗客へのお礼に出している景品であるかのように、特権としてその接触を享楽するのがつねではないですか。近代都市の交通機関内では、朝夕どれだけ多量にこの擬似性慾が消費されていることでしょう。時としてそれは立派な情事でさえあると私は思います。しかし、言うまでもなくそのためには、押して来る女の脚が飽くまでも忍びやかに、そして両方の着物をとおしてふっくら[#「ふっくら」に傍点]と暖かい体温が通い、血のときめきが感じられる――といったような条件が必要でしょう。だからこの「乗物のなかの相手」には処女よりも人妻のほうが面白いと今アレキサンドリアへ書記生になって行っている私の悪友が言ったことがあります。とにかく、これほど議論の多い「都会的交渉」をその未知の女と持つことになったのですから、「23」はこの先方から向いて来た幸運に感謝すべきだったかも知れません。かれは挨拶のために自分の膝でそっ[#「そっ」に傍点]と隣りの女を小突いてみました。そして驚くべき発見に出会ったのです。
 はじめに彼の注意を惹いた冷たい固いものは、他ならぬその女の脚だったのです。じつに彼女の脚は、鉄板のように冷徹でした。岩石のように堅固でした。そして、コンクリイトのように細かくざらざら[#「ざらざら」に傍点]に固形化している表面が、「23」にも明かに感じられたといいますから、彼の興味は一時にほかの方角をとりました。岩のような脚をしている女! 好奇心が「23」を打ったのです。彼はシリア人らしい物静かさでその女のスタディを開始しました。
 ゲイムが進むにつれて、女の脚はますます圧迫して来ます。彼も脚でそれに答えながら、それとなく席の横へハンケチを落して、拾い上げる拍子に手で触ってみました。たしかに鉄です。石です。コンクリイトです。彼はだんだん大胆になって、腿で押し返したり、公然と手で撫でてみたりしましたが、女は気がつく風もありません、しかし、これは無理もありますまい。女にしてみれば、まるで部屋の外壁へ微風が当っているようにしか感じな
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