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ランダイでは仏蘭西《フランス》軍の歩哨が寒気のために衣裳人形のようになって凍死した。ルツェルンの湖では汽船の羅針盤が氷って岩壁に熱烈な接吻をした。巴里《パリー》では二つの橋の鉄材が収縮して交通遮断になった。ヴェニスでは運河と礁湖《ラグウン》がすっかり硝子《ガラス》張りになって、市民は一時ゴンドラから解放された――。
これらの土地を寒気災害視察員のように巡回して来た私たちに、RIVIERAの太陽と植物系統は何と浮気に見えたことよ!
汽車を出ると地中海が空色の歓声を上げた。誕生日菓子のように立体的な緑の山がそれに答えていた。停車場と機関庫の間に一線《ひとすじ》の海が光っていた。そこに快走艇《ヤット》の赤い三角帆がコルシカからの微風を享楽していた。ヴェランダを広く取って、いぶし銅の訪問板にまでミモザの花の届いてる原色塗りの玩具の山荘《ヴィラ》が、それぞれの地形から人の注意を惹こうとしていた。近づいてみると、その一つ一つが固有名詞を秘蔵していた。〔La Bohe`me〕 というのがあった。“〔MA CHE`RIE〕”というのもあった。英語では“The Wood−nymph”などというのが見られた。ミモザはどこにでもあった。空気はその黄金《こがね》色の吐息のためにグラスの香水工場のように湿っぽく、かつ酒精的だった。海岸の散歩街《プロムナアド》では巨人の椰子《やし》があふりかのほうへ背伸びをしながら行列していた。化粧クリイムの浪へ樺色に焼けた海水着の女達が走り込んだり逃げかえったりしていた。砂には日光と恋と子供の遊びと籠椅子とがあった。人々はみんな大金を費《つか》って遊びに来ている者に特有な、小さな事件を好む悪戯《いたずら》らしい眼つきで素早くお互いに見交していた。私たちは自動車道路に沿うオテル・アングレテエルの自動車庫へ行って支配人に会いたいと言った。
ここは新型の自動車に自動車学校の教授格の運転手をひとり附けて、一週間でも一月でも自用車として貸切りにするところなのである。はじめに保証の金を置けばリヴィラのなかならどこへ乗って行ってもいいことになっていた。自動車の食費――油代――とそれから運転手の食糧、車の手入れや運転手の宿泊料、チップ、グラアジ費その他は一切こっち持ちで、ほかに巴里《パリー》十六区のアパルトマン代ほどに高い借賃を払わなければならないのだ。しかし、そこの自動車には、どう見ても富豪の自家用としか思えないすべての装飾と設備が行き届いていた。支配人が私たちを案内した陳列場《ショウ・ルウム》には、まるでエトワルヘ向って右側のシャンゼリゼの窓のように、高慢な感情の機械動物がすっかりお化粧を済まして思い思いの媚態《コケトリイ》を凝らしていた。それはちょうど貴族の女たちによって育てられて来た犬の展覧会と言った、高価な女性的な感じだった。その、みどり色の垂幕を背景にあちこちに近代的光輝を放っている新鋭の自動車のあいだを、私達は全員堵列礼に臨む東洋艦隊の艦長夫妻のように見て廻った。
アルプス国境防備兵のようにしっかりした足許と精悍な長身とを持つ伊太利《イタリー》製のランチャ。
麒麟《きりん》のように清楚なエスパノ・スイザ。
撫でながら走らせることを必要とする誇りの高いワザン。
それから何もかも承知している第一人者の鷹揚な微笑を忘れないロウルス・ロイス。
私達は彼女の好みで鼻の尖《とが》ったランチャを選んだ。三週間の契約だった。それはスポウツ・カアのように背の低い、真っ黄いろに装った稀代《きだい》の伊達者だった。黒と黄の配合はこの週間の流行だと言って、彼女は黒の制服をつけた真面目顔の運転手を悦《よろこ》んだ。私が名を訊いたら彼は「第十九番《ヌメロ・デズヌウフ》」とだけ答えた。こうして19が彼の呼称《よびな》になったのだ。そしてこの黄瑪瑙《きめのう》の巻煙草《シガレット》パイプのように粋《シック》なランチャが、これから三週間私たちの自用車としてモンテ・カアロ公園《ジャルダン》の小径《こみち》に park されるであろうし、19は三週間のあいだ私達が「ほんとに彼男《あれ》だけは私たちが掘り出した宝石《ジュエル》です」と言い得る、身綺麗《みぎれい》で小気《こき》の利いた“My Good Man”となることであろう。
『僕らはこの車で、君に運転させて真直ぐ巴里《パリー》からドライヴして来た気でこれからモンテ・キャアロへ乗り込むんだから、君も万事そのつもりで。』
私が言った。妻がつけ足した。
『そうしてムシュウ19はあたし達んところに三年――いいえ、足掛《あしかけ》四年働いている忠実な忠実な運転手さんなの。この頃の召使いは腰が浮いてて困るんですけれど、あなただけは別なんですって。』
『そうだ。是非そういう風に考えていてもらいた
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