ト督でした――にも、階段をころがり落ちる試験にもすっかり及第したのですけれど、最後の乗馬試験で撥《はね》られてしまいました。私にはどんなに好意ある男をさえも恐怖させるところがあるのです。そのために女優になることは断念しなければなりませんでしたが、あなたが私の名を新聞で御覧になったとすれば、それは映画事業に関聯してではなく、遺産相続という恥ずべき、けれど甘い法律手続の客体としてではなかったでしょうか。全く現在の私は、先月亡くなった父将軍の預金通帳によってこうしているのですからね。つまり良人《おっと》と父と、私はいま二重の喪に服していて重いのです。しかし私は正規の喪服を着ることはどこまでも拒絶します。黒は私に似合ったことありませんもの。』
そしてその申訳のように、彼女は父の分と良人のぶんと二|吋《インチ》四方ほどの黒の絹はんけちを二枚、靴下の腿《もも》のところから摘《つま》み出して、別々のハンケチで左右の眼から桃色の蝋《ろう》のしたたりのような涙を拭くのである。私はそのハンケチが西班牙《スペイン》旧教葬の寝棺にかける黒レイスの切れはしであることを認めて、その通り彼女に告げた。
彼女は父の方のはんけち[#「はんけち」に傍点]で鼻をかんでから私の妻に言った。
『奥さま。お茶へは何をお入れになります? 檸檬《レモン》よりも「|彼の主人の声《ヒズ・マスタアス・ヴォイス》」の蓄音機レコードのほうが宜しう御座いますわ。お茶のなかへあれをすこし爪鑢《つめやすり》で削り落していただきますと、どんなにスチイムの利いてる応接間《サロン》で何時間|他所行《よそゆ》きの言葉を使っていても、決して小鼻の横に脂肪の浮くということはございません。さ、庭園《ジャルダン》に出て馬車屋の挨拶と夕陽の色を吸いましょうね。おお・※[#濁点付き平仮名う、1−4−84]・おあある、ムシュウ!』
そして立ちがけに、通りかかった給仕を指先で押さえてフランシス・スワン夫人がささやいたのだ。
『ピイタア、この紳士にあの「あたしの記憶のために」のカクテルを一つ混ぜて上げて頂戴。』
3
ランキャスタシャアのPOLOの名手として知られているナックス・タウンセンド大佐は、女を擽《くすぐ》るために赤毛の口髭を短く刈り込んで、RをUのように発音していた。彼はまたブラッセル産|切子《きりこ》細工の硝子《ガラス》の指輪を三鞭《シャンパン》グラスのなかへ落してそれが表面に浮いてるように見せる不思議な妖術をも心得ていた。アンドレ・デニュウ氏は恩給で衣食しているセイヌ上流地方の退職戸籍吏のように見えたけれど、じつは彼は巴里《パリー》の百貨店プランタンの大株主なのである。ナプキンを顎《あご》の下へ押し込んでナイフで給仕人《ギャルソン》を指揮する癖があった。夫人は仔馬のように若く、ヴィテルボの陶器のようにこわれやすく、そして二人はいつも、たった今階上の自分達の部屋の性的天国からこの下界へ下りて来たばかりのところであると告白しているように見える夫婦だった。このほかそこには、モンテ・カアロの誘因《アトラクション》の一の鳩射撃《ピジョン・シウテング》の世紀的大家、歯と襯衣《しゃつ》の白い小|亜細亜《アジア》生れのヴィクトル・アリ氏があった。このモンテ・カアロの高級スポウツ鳩撃ちに関しては、産業革命以前から英吉利《イギリス》を中心に異論をなすものが多い。その反対説の大要は、鳩は平和と穏順の半神的象徴であるのに、それを冷たい血において射殺するのは狂気に近いというのである。それに対してヴィクトル・アリ氏は先々月|浩翰《こうかん》な反駁文をアムステルダム発行の鉄砲雑誌「火器《ファイア・アウム》」に寄せた。そのなかで氏は、灰色兎・栗鼠《リス》・蜂鳥.馴鹿《となかい》・かんがるう・野犬などを虐殺するイギリス人の狩猟趣味を指摘し、これらの灰色兎・栗鼠・蜂鳥・馴鹿・かんがるう・野犬のすべてがいかに平和と穏順の半神的象徴であるかを一々古今の詩篇・散文・学説からの文句を引いて例証した。そして彼は、動物に対する感情の相違は畢竟《ひっきょう》民族の問題であると喝破《かっぱ》した。つまり芬蘭土《フィンランド》人は見ただけで嘔吐するかも知れない豚の胎児を、西班牙《スペイン》人は原形のまま丸蒸しにして賞美するのである。それと同じように、一羽の鳩にしても、いぎりすの眼には資本帝国主義のあらゆる美名家として映るだろうし、ホッテントットにとっては単に焙《あぶ》り肉の晩餐を聯想させるに過ぎないかも知れないのだ。そしてわれわれモンテ・カアロの定連《アピチュエ》には、射撃の的《まと》以外の鳩というものの存在を想像することは出来ない。こういう論旨だった。この論文には予期以上の反響があって、ことに英吉利《イギリス》人が灰色兎・栗鼠・蜂鳥
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