明日になろうとしていることを私は歯科医の腕時計で読んだ。
 そして独逸《ドイツ》人に言った。
『僕はオテル・エルミタアジュのあなたの部屋の番号を知っています。三十六号でしょう? 自分は妻と別々の部屋を取る習慣だなどとは仰言《おっしゃ》らないでしょうね。』
 ところが彼の驚愕が私を驚愕させたのである。しかも彼のは覚えのない罪を責められる人が不思議そうに示す種類の驚愕だった。
『妻ですって? あなたは人違いをしている。悲しいことだ。私は結婚するほど旧式でもないし、オテル・エルミタアジュはちょっと外部から見たことがあるだけです。』
 私はじぶんが単なる即席の思いつきでこの個人的な会話を切り出したのではないという立場を守護するために、すこしばかり顔を赤くして粘着《パアシスト》した。
『あなたに関する僕の知識はそれだけではないのです。僕はあなたがコロンの製鋲《せいびょう》会社の社長であることも、亜米利加《アメリカ》から妻楊子《つまようじ》を輸入した本人であることも、そしてそのために何艘の英吉利《イギリス》貨物船を傭船《チャアタア》しなければならなかったか――すっかり知っているつもりです。』
『じつに恐るべき独断だ!』
 独逸《ドイツ》人は卓子《テーブル》を叩いて酒杯《グラス》にシミイを踊らせた。
『私は単なる正直な映画技師です。』
 私は黙った。これ以上主張をつづけることはこの肥大漢と私とのあいだの決闘に終りそうだったから。しかし、それにもかかわらず私は、自分のほうが正しいことを確信していた。なぜなら、現に今夜の若い時間に、彼の妻のいが[#「いが」に傍点]栗頭の波斯《ペルシャ》猫がわざわざ私に指示してこの男が良人《おっと》であると証言したではないか。
 ヴィクトル・アリ氏の大笑いが一同の注意を要求した。
『解ってる、わかっている!』
 彼は眼と眼の中間で両手を泳がせていた。それは明かに可笑《おか》しさのあまり駈け出して来ようとする泪《なみだ》を睫毛《まつげ》の境いで追い返すための努力を示していた。ばらばら[#「ばらばら」に傍点]の言葉でアリ氏は唱え出したのである。
『――あの人はハンブルグの荷上《にあげ》人夫ではないのです――あの人は毎朝熱湯の風呂へ這入って自分の身体と一しょに茹《ゆ》で上った玉子をそのお湯のなかで食べるのです――それから、あの人のそばへ寄るとリンボルグ、じゃ
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