なかった、ラックフォルト乾酪《チイズ》のにおいがする、と言いましたね。それから、それから――あの人の足の小指は赤い蘇国毛糸の靴下のなかで下へ曲っている――こうでしたね?』
『それはどういうお話しでしょう!』
フランシス・スワン夫人が将校のようにずぼん[#「ずぼん」に傍点]のポケットへ手を入れて訊いた。
7
ちょうどそこへ、髪油《かみあぶら》を手の序《ついで》に顔へも塗ったような、頬の光った楽長が近づいて来て何かお好みの曲はございませんでしょうかと質問したので、私が一同を代表して「ハリファックスへ行くように」と勧告した。すると突然私の鼻さきに菫《すみれ》の花が咲いた。それは安価香水のにおいと田園の露を散らして私の洋襟《カラア》を濡らした。曲馬団の少女のようなモナコの風土服を着た花売女がわざと平調な英語でその一束をすすめていた。これは私にすこし考えるところがあって買うことにした。私は女の残して行った菫の花を嗅《か》いでみた。それにはアルコウルの疑いがあった。そして不自然にまで水をかぶって重かった。私は巴里《パリー》モンマルトルのキャバレLA・FANTASIOを思い出した。そこでは売った花束を、酔った所有者が席を離れて踊ってるあいだに、その花売娘が廻って来てこっそり[#「こっそり」に傍点]持って行ってしまうのである。そしてそれに水をかけ、香水を振ってまた売りに来るのだ。こうして同じ花が一晩に何べんとなく新装して売りに出される。そして人は自分の買った花束を朝までに何度買わされるか知れないのだ。
ここのもそれではないかと私は思った。で、私は花売女に盗まれないように卓子《テーブル》の上で菫の束を握っていることにした。が、それでも不安だったので、私は妻の口紅棒《リップ・ステック》を借りて花を結んである紫のりぼん[#「りぼん」に傍点]の端へ|X《クロス》をつけた。そしてようよう安心することが出来た。
みんながヴィクトル・アリ氏の口を見詰めていた。そこからは露西亜《ロシア》煙草のけむりと一しょに言葉がぞろぞろ這い出していた。それらが空中でいろいろに繋《つな》がって、こういう一つのモンテ・カアロ風景を作り出していた。しかし、これは私があんまりロンシャン競馬場の泥みたいな土耳古珈琲《トルココーヒー》にコニャックを入れ過ぎたので、その御褒美《ごほうび》に、キャフェ・ド
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