ナす、マダム。』
私は給仕長のように散漫な好色を隠して言った。
すると、罩《こ》もった空気を衝《つ》いて彼女の金属性の微風が掠《かす》めたのだ。
『あら! どうしてそれを御存じ? 三六号はオテル・エルミタアジュのあたしの部屋の番号よ。』
彼女の胸で二つの小丘がわなないた。同時にCIRO真珠飾りがちらちら[#「ちらちら」に傍点]と鳴いて、彼女は歯を見せずに笑った。ぷろしゃ聯隊の伍長のように青々といが[#「いが」に傍点]栗に刈った頭がいつまでもいつまでも笑いに揺れているのである。それにしても、どうして私は彼女の部屋の番号なんぞ知っていたんだろう? 私はあわてて、36はいま私の立ってるルウレット卓子《テーブル》で玉の落ちた番号に過ぎないと彼女に告げた。が、そのときはもう全然ほかの興味に彼女は身を委《ゆだ》ねていた。雨の日のシャンゼリゼエに留度《とめど》もなく滑る自動車の車輪《タイヤ》のように、彼女は自分の心頭《しんとう》がどこへ流れて行くかじぶんで知らないのである。またその自動車の後窓に、都会の迷信中の傑作として護謨《ごむ》糸に吊るされて踊ってる身振り人形のピエロのように、彼女は近代的速度を備えた淡いエゴイズムの一本の感覚の尖端にぶら下ってるのだ。
言葉と彼女の上半身とがいっしょに饒舌《しゃべ》り出した。
『わっら! ムシュウ。ほら、あすこに、そばへ寄るときっとラックフォルト乾酪《チーズ》と酸菜《サワクラウト》のにおいのしそうな、伯林《ベルリン》ドロティン・ストラッセ街から来た紳士がいるでしょう? あの肥った、そら、いま乾板現像液で茶色に染まってる手を出して、他人の賭金《ステイキ》を誤魔化《ごまか》してさらえ込もうとしている――AA! 何て素走《すばし》っこい事業でしょう! あたしはあの人を讃美します。いいえ、あの人はハンブルグの荷上《にあげ》人夫ではないのです。コロンの郊外に生産工場を持っていて、半世紀来|欧羅巴《ヨーロッパ》じゅうの客車と貨物列車へ打ってきた鋲《びょう》の供給者なのです。あの人の手はいつも他人《ひと》のぽけっとへ這入りたがってうずうず[#「うずうず」に傍点]しています。あの人は毎朝熱湯に入浴してじぶんの身体《からだ》と一しょに茹《ゆ》でた玉子をお湯のなかで食べるのです。あの人はエストニア孤児救済委員会の委託金を着服してそれで亜米利加《アメリカ》
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