ヘっきりと認識しなければならない。このモンテ・カアロの博奕場《キャジノ》では、どんな神秘も個人の関心を強《し》いはしないのだ。じっさいいかに小さな異常現象へでもすこしの好奇心を振り向けることは、ここの多角壁の内部ではそれだけで一つの「許せない規則違反」なのだ。そこで私はただ聖《サン》マルタン水族館の門番のように、黙ったままこころのなかで彼女の足へ最敬礼することで満足したのである。
 がめたる[#「がめたる」に傍点]の靴下が慄悍《ひょうかん》な脛《すね》を包んで、破けまいと努力していた。その輪廓は脂肪過多の傾向からはずっと[#「ずっと」に傍点]遠かった。アキレス氏|腱《すじ》は張り切って、果物ナイフの刃のように外へむかってほそく震えていた。私の眼にも判る一|大きさ《サイズ》小さなゴブラン織りの宮廷靴が、蹴合《けあ》いに勝って得意な時の鶏の足のような華奢《きゃしゃ》な傲慢さで絨毯の毛波《ケバ》を押しつけていた。彼女が足を移動すると、そのけば[#「けば」に傍点]は一せいに起き上って、絨毯のうえの靴あとが見てる間に周囲に吸われて消えた。あまり繊細に、そして音律的に足が動くので、そのうちに私は、じつは彼女が、咽喉《のど》の奥で唄う高速度曲に合わせてブダペスト風の踊りを真似してるのであることを知った。
『ね、何を見ていらっしゃるの?』
 この中婆さんは微笑らしいもので私の近代的騎士性を賞美するのである。それから彼女は、伊太利《イタリー》RIVIERAの聖《サン》レモで、眼と声の腐った不潔な少女達が悪魔よけの陶製の陽物と一しょに売ってる、羅馬《ローマ》皮に金ぴかの戦車を飛び模様に置いた手提《バッグ》をあけて、煙草の挟んでない象牙の長パイプを取り出し、直ぐにそれを指先で廻しはじめた。電灯の光矢《こうし》がぶつかって、花火のように音を発して散った。私はこの意味の不明瞭な手品に見入っていた。
『あたしね、ちょいと卓子《テーブル》を明けたの。いま何番が出て?』
 今度はリラとすぺいん[#「すぺいん」に傍点]葱《ねぎ》のまじったにおいが彼女の口から私の嗅覚を撫でた。この女は歓喜の絶頂で泣きながら男の鼻を噛む種類であると私は測定した。またこの場合、返事はすべて仏蘭西《フランス》語でされるのでなければ罪悪であることも私は心得ていた。ところで、私は流暢なふらんす語を話すのである。
『番号は三十六
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