翌ヘ首から下げ、男は時計の鎖へつけたりしてしじゅう持ちあるいてる。そして、雨が降っても風邪を引いても犬が吠えても、何かすこしでも気に食わないことがあると、早速この象形物を突き出して「ふぃが・ど・であぼ!」とおまじないを叫び、これで確実に災厄を防いで当分の幸福を招いた気になってる。
なんかとこんなような、女気のない長い海を越えて来た船員たち、迷信好きの彼らが狂喜して手を出すにきまってるものばかり精選してあるんだから、この珍奇なTALISMANだけでも、全く、これに羽が生えて売れなければ「ベイブ・ルウスは三振し・カロル親王がルウマニアの王位に就く」わけで、企業家びっこリンプの独自性はここに遺憾なく発揮されてる。
さてこの、たがいに独立し、それでいて相関聯してる三つの商売――テレサを取りまく「マルガリイダの家」と、夜中に碇泊船を訪問するリンピイの女舟と、支那公《チンキイ》ロン・ウウとしての僕のしっぷ・ちゃんと――が、静かにつづいて、何ごともない毎日がりすぼん[#「りすぼん」に傍点]に滑って行った。
が、そういつまでも何事もないんじゃあ約束が違う。そこで、おわりに近づくに従い急にスピイドを出してもう手っ取り早くFINISにしちまうとして、ちょうどここんとこへ、問題の怪異船がるしあ・もれの号が入港して来たのだ。
もしあの時、風がこの船をリスボン沖で素通りさせたら?
そうしたら、第一この話はなかったにきまってるし、リンピイはいまだにほるつがる[#「ほるつがる」に傍点]りすぼあ港の満足せるリンピイだったろうし、ことによると僕も、いまもって支那公《チンキイ》ロン・ウウの嗜眠病的仮存在のままでいたかも知れない。
思えば、十字路的な出現であった―― this ガルシア・モレノ!
なぜって君、一つも売れないのだ。何がって君、僕のしっぷ・ちゃんがさ。あれだけ飛行するように売れてた、そして、ほかの船ではやはり立派に売れてる――その売れる理由はすでにわかった――同じ品物が、このガルシア・モレノ号でだけはうそ[#「うそ」に傍点]のようにちっとも捌けないのだ。誰ひとり手を取って見ようとするものもない。」毎日通ってるうちに、しまいには船中てんで[#「てんで」に傍点]僕を相手にしないで、振り向く者もなくなった。この、売れないのは僕のほうばかりじゃなく、リンピイの「女しっぷ・ちゃん」なんか、もっと惨めで、何度押しかけてっても手ぎわよく無視されていつも徒労に帰した。これは僕とリンピイにとって全く新しい奇現象《センセイション》である。その原因は果して那辺《なへん》に存するか? 一つこいつを見きわめないでは! と言うんで、僕はすこし意地にかかって毎夜根気よく出かけてったものだが、at last, 僕とリンピイのまえに投げ出された一大MYSTERY――公式上、物語の結末《エンデング》は速力だけを尊重する。だから急ぐ。
最後に僕が、何とかしてこのがるしあ・もれの号を征服すべき努力と決意のもとに――もう一つ暗転。
SHIP・AHOY!
|血だらけな晩め《デ・ブラッデイ・ノウイト》! God damn it !
じゃこっぷ[#「じゃこっぷ」に傍点]の中途から救われてガルシア・モレノに甲板した僕と鞄が、LO! こうまた国際的|涜神《とくしん》語を吐き出していた。
仮死した大煙突が夜露の汗をかいて、船料理人《シップス・ダクタア》の手のポケット猿、こつこつこつ[#「こつこつこつ」に傍点]と鉄板を踏んでる無電技師――やっぱりみんな、上陸番なんか無視して|山の手《バイロ・アルト》の灯へ逃げてったあととみえて、例のとおり船中はがらん[#「がらん」に傍点]としていた。と思ったのが、これが大へんな僕のまちがいで、こつこつこつ・こつこつこつ、いつものように船艙《ハッチ》の端に腰かけて、拡げた鞄と一しょに化石してる僕へ、靴音と、声が接近して来た。
『HUM! |いよう《ヘロウ》! お前は毎晩ここへ来てるしっぷ[#「しっぷ」に傍点]・ちゃん[#「ちゃん」に傍点]の支那公《チンキイ》だな?』
事務長《パアサア》だった。僕は黙ってうなずいた。
『どうだ、どうせお前なんかどこで何をしようと同じことだろうが、一つ船へ来て働いてみないか。』出しぬけに彼が言った。
『石炭夫《コウルパサア》だ。高給。別待。本船か! これから亜弗利加《アフリカ》の西海岸を南下して濠洲廻りだ。WHAT・SAY? HEY?』
『ME?』
『YEA。』
そして事務長は、ここで急に慣れなれしくにやにや[#「にやにや」に傍点]し出して、
『おい、たくさん女がいるんだよ、この船には。船員の過半は女なんだ。共有さみんな。|浮かぶ後宮《フロウテング・ハレム》! Eh, what ? ただね、今んところ、ひとり男が足らない。明朝早くの出帆だから、いま補欠が見つからなけりゃあ、今夜じゅうに一人「上海《シャンハイ》」しなくちゃならないんだ。支那公《チンキイ》、本船へ来いよ。ま、見せてやろう。』
事務長についてって覗いた乗組員部屋《クルウス・クオウタ》には、上陸したと思った船員がすっかり納まってて、その夜のめいめいの女――なるほど船乗りらしく男装はしていたが、見たところ美少年のような、確かに異性だった――を相手に、はなはだ貨物船らしくない空気のなかで平和に談笑していた。BAH!
半分以上は女が動かしてるガルシア・モレノ?
これじゃあリンピイの商売は勿論、僕の「しっぷ・ちゃん」だって上ったりなわけで、どんな不思議も、こうして解っちまったあとでは何ら不思議じゃない。
ただ、一刻も早くリンピイにこの発見を伝えたいと思った僕が、じゃあ、ちょっと荷物を纏《まと》めて直ぐ引っ返して来るからと事務長に約束して、いそいでガルシア・モレノ号を逃げ出したことは、自然すぎるほど自然で、言うまでもあるまい。
波止場《カイス》でリンピイにこの話をして、
『驚いたろう?』
と結ぶと、リンピイは何かじっ[#「じっ」に傍点]と考えこみながら、
『うん――。』
妙にうっとり[#「うっとり」に傍点]して答えてた。そして、今夜はガルシア・モレノに「上海《シャンハイ》」――深夜|埠頭《ふとう》の散歩者を暴力で船へ担ぎ上げて出帆と同時に下級労役に酷使すること――があるにきまってるから、あんまり遅くまでここらをうろつかないがいい――と忠告した僕のことばが、いまから思うと、絶大な啓示として彼を打ったに相違ない。なぜって君、その晩、聖《サン》ジュアンの酒場でしこたま[#「しこたま」に傍点]|燃える水《アグワルデンテ》をあおって、すっかり「腹の虫」と自分の意識を殺しちまった跛者《リンピイ》リンプは、わざとがるしあ・もれの号の上海《シャンハイ》隊を待って、眠る大倉庫の横町にぶっ[#「ぶっ」に傍点]倒れていたからだ。
リンピイは行ってしまった。ガルシア・モレノの上海《シャンハイ》隊に自ら進んで上海《シャンハイ》されて、無意識のうちに担ぎ上げられてリンピイは行ってしまった。
船と女と whim を追って海から海をわたり歩いてるリンピイ!
急傾斜する水平線をしばらく忘れて、内心どんなにか淋しかったリンピイ!
どこでなにをしようとどうせ同じことなリンピイ!
そこには、マルガリイダもPIMPもなかった。強い海の The Call と、視界外への慢性的な放浪心とがあるばかりだった。
海から来た彼は、その誘惑に負けて故郷へ帰ったのだ。自発的に「上海《シャンハイ》された男」なんて、この古いインクの水にとってもはじめての実見だったろう。とにかく神様と文明のほかに、また一つリンピイがりすぼあ[#「りすぼあ」に傍点]を見すてた。着のみ着のままでリンピイは行ってしまった。|暗黒の海《マアル・テアネブロウゾ》へ!
SHIP・AHOY!
海には海だけに棲《す》む独立の一種族と、彼ら内部の法律と道徳と生活がある。この小別天地を積んだガルシア・モレノ号が、ひょいと過失的にLISBOAの岸へ触れて、その拍子にわがリンピイを掠《かす》め去ったのだ。僕には、大きな未知のほんの瞥見だけを残して――。
いま亜弗利加《アフリカ》の西を南下しつつある The Garcia Moreno のなかで、まるで古|葡萄牙《ポルトガル》の民族詩人ルイス・カモウエンスがその海洋詩LUCIADUSのなかで好んで描写したような、何と途轍《とてつ》もない女護《にょご》が島の光景がびっこ《リンピイ》リンプを包んでることか――GOD・KNOWS。
――あとには、マルガリイダと、テレサと、夜の短船《ボウテ》の女達と|山の手《バイロ・アルト》の灯と、もう支那人《チンク》でなくてもいい僕と、古猫のようなりすぼん[#「りすぼん」に傍点]と、腐ったINKの海・テイジョ河口の三角浪・桟橋の私語《ささやき》・この真夜中の男女の雑沓・眠ってる倉庫の列・水溜りの星・悪臭・嬌笑。Eh, what ?
底本:「踊る地平線(下)」岩波文庫、岩波書店
1999(平成11)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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