ェガルシア・モレノ号を手がけようとして――一つの暗転。
 SHIP・AHOY!
 |血だらけな晩め《デ・ブラッディ・ノウイト》! God damn it!
 船尾の綱板梯子《ジャコブス・ラダア》に揺られてる僕の眼は、すぐ鼻っ先の大きな羅馬《ローマ》字を綴ってた。この船にはアマゾンのにおいがする。船名、がるしあ・もれの号。船籍、ブエノス・アイレスと白ぺいんとが赤錆《あかさび》で消えかかって、足の下の吃水線《きっすいせん》には、南あめりかからくっ[#「くっ」に傍点]附いて来た紫の海草が星と一しょに動いていた。
 火夫の油服《あぶらふく》に、真黒なタオルで頭を結んだ僕だ。この、紙に革を張ったすうつけいす[#「すうつけいす」に傍点]は「しっぷ・ちゃん」の商品を満腹して黒人の頭蓋のように重かった。片手にその鞄――手が切れそうに痛い――をぶら下げて、ほかの手で縄梯子《ジャコップ》を掴んで攀《よ》じ登るのだから、ビスケイ湾の貨物船みたいに身体《からだ》が傾いて、ジャコップが足に絡んで、それを蹴《け》ほどいて一歩々々踏み上るのが骨《ハード》だった。梯子《はしご》と僕と鞄が、すっかり仲よく船尾《スタアン》の凹《へこ》みへへばり[#「へばり」に傍点]ついて、ぜんたい斜めに宙乗りしていた。陸から漕いで来た僕の|はしけ《ボウテ》は梯子《ジャコップ》の下に結び着けてある。それがテイジョ河口の三角波に擽《くすぐ》られて忍び笑いしていた。
 ――God damn!
 LO! 国際的|涜神《とくしん》語がまた僕の嘴《くちばし》を歪《ゆが》めた。なぜって君、夜の港は一めんのインク――|青・黒《ブルウ・ブラック》―― だろう。そこにぴちぴち[#「ぴちぴち」に傍点]跳《は》ねてるのは鰯《いわし》の散歩隊だろう。闇黒《くらやみ》のなかの雪みたいに大きく群れてるのは恋の鴎《かもめ》たちだろう。むこうにちかちか[#「ちかちか」に傍点]するのは、羅馬《ローマ》七丘に擬《なぞら》えて七つの高台に建ってるリスボンの灯だろう。しっぷ・あほうい! と波止場《カイス》のほうから声がするのは、きっとまた、急に責任と威厳を感じ出したどこかの酔っぱらい船長が女から船へ帰ろうとして艀舟《ランシャ》を呼んでるのだろう。
 Ship Ahoy! ――そして僕はいま、うす汚ない商品鞄をさげてこのガルシア・モレノ号へ這いあがるべく努力してる最中だ。何て「|血だらけ《ブラッディ》」な! O! でいむ!
 さっきから言うとおり、りすぼん港だった。葡萄牙《ポルトガル》の首府 LISBON ――土地の人は、何かしら異を立てなければ気の済まない、土地の人らしい一見識をもってLISBOAと書いて「リスボア」と読んでる―― anyhow, ふるい水に沿った古い開港場に、喚《わめ》く人間と恐るべき言語と、日光と雨と売春と、疾病と夕陽の壁と水夫の唾と海の道徳とがごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]になって歴史的市場をひらいていた。そこへ、今日の夕方、この The Garcia Moreno が大西洋を撫でて入港して来たのだ。植民地の男が植民地の物産と何十日も同居して――だから、こうして植民地の船がはいると、港いっぱいに植民地的|臭気《エア》が充満して、女達は昨夜の顔へまた紅をなすり、家々の窓へさわやかな異国の風が吹き込み、猶太人《ジュウ》の両替屋に不思議な貨幣があふれ、船員の棄《す》てた灰色猫を船員が拾ったり、三年前の|海岸通り《ウォタ・フロント》の赤ボイラのかげの女が、まだその同じ赤ボイラの陰に白く蹲踞《しゃが》んで待っていたりして、あはあ! いろいろな笑いごとに何と古めかしく派手な LISBOA !
 この週期的活気・海と陸との呼応・みなとのざわめき[#「ざわめき」に傍点]によって早くからきょうガルシア・モレノの入船《いりふね》を感づいた僕は、仲間《パル》のリンピイから預ったしっぷ[#「しっぷ」に傍点]・ちゃん[#「ちゃん」に傍点]鞄《ケイス》をすっかり用意して、それでも、マストの先の青い星がともるまでぼんやり待っていた。それは、かねての契約どおりに、僕がひとりでリンピイの鞄を下げてその新入港の船へ乗りこみ、甲板に品物を拡げて、当番の乗組員《クルウ》相手に商売する。リンピイはリンピイで例のほかの種類の商品を積んで、僕が呼ぶと、あとから船へ上ってこようというのだ。そこで僕は、リンピイの鞄と暗黒と一しょにがるしあ・もれの号へ漕ぎ寄せてみると、長い大西洋《アトランチコ》を済ました船員達は、上陸番なんか無視して誰もかれも「七つの丘の灯」へ逃げてったあととみえて、船尾《スタアン》の綱梯子《ジャコップ》が公然の秘密のようにこんなにぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]していた。ボウテをつないで、僕と鞄がそのじゃこぷ[#「じゃこぷ」に
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