ヌ・水上警察・税関よりも先に、逐一この|女魔が丘《バイロ・アルト》の窓に知れてしまった。地獄《ダン・ビロ》の釜に火がはいると煙突のけむりが太くなって、出帆旗は女たちも心得てる。すると、あのNAJIMIの男がまた|闇黒の海《マアル・テネブロウゾ》へ出てくるところだというんで、ばいろ・あるとの一つの窓で、ひとりの女《プウタ》が、ひょっ[#「ひょっ」に傍点]と浮んだ彼の体臭の追憶のなかで思い出し笑いにふけっていようというものだ。船乗りはみんな恋巧者である。一度会った女に決して忘れさせはしない。だから、黒地に白の出港旗を見つめる女たちの眼には、めいめいの恋人を送るこころもちがあった。が、出帆の時は、これでまだいい。新入港の船がテイジョ河口の三角浪を蹴立《けた》てて滑りこんで、|山の手《バイロ・アルト》の家々の窓掛けを爽やかな異国の風がなぶると、週期的活気・海と陸との呼応・みなとのざわめき[#「ざわめき」に傍点]が坂の上の町一帯に充満して、彼女らはゆうべの顔へまた紅をなすり、七面鳥マルガリイダ婆さんは一そうがんがん[#「がんがん」に傍点]喚《わめ》いて家じゅうを駈けめぐり――さあ! お部屋の用意は出来てるかい? 何でもいいから花を取り変えてお置きって言うのに! お船の人は家庭らしい空気が好きなものだから。それから掃除! リンピイ! おや! リンプ! どうしたんだろうまああの人は――しかし、テレサにだけは急に眼立って御機嫌を取り出して――テレサや、今夜も強い好い人がわざわざ海を越えてお前んとこへ来るんだよ。テレサや、お前は一たい、帆桁《ほげた》のような水夫さんか、手の白いボウイさんか、それとも黒輝石みたいな印度《インド》の|釜たき《ファイアマン》さん? どんなのが一番好きでしたっけ? わたしの可愛いお猫さんのように、さ、お湯をつかって支度をしましょう――といった調子なので、テレサはテレサですっかり[#「すっかり」に傍点]ふくれ返って、その巨大な北極熊みたいな全身へ万遍なくおしろいを叩きはじめる。この裸体のお化粧は、何もテレサひとりの個人的趣味ばかりではなく、「マルガリイダの家の」一 attraction として大いに事務的必要があったのだ。
テレサは、僕の知る限りにおいてすこし「|二階がお留守《ノウバディ・アップステアス》」――頭がからっぽ[#「からっぽ」に傍点]――だった。
前へ
次へ
全40ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング