まで傍杖《そばづえ》を食わして殺すのは非道《ひど》い。こういう議論が起って、最近では、出場の馬へ硬革製の腹当てをさせることにしている。しかし、これも形式的なもので何ら実際に保護の用をなさない。何しろ相手は火のように猛《たけ》り狂ってる野牛だ。馬の逃げ足が一秒でも遅いと、忽《たちま》ち今日のような惨事を惹起することは眼に見えてる。が、この悲惨とか残酷とかいうのも外国人にとってだけで、すぺいん人はここが闘牛の面白いところだと手を叩いて喜んでるから、始末におえない。闘牛《トウロス》のつづくかぎり、馬の犠牲も絶えないだろう。
 なぜ地球上にこういう野蛮な存在を許しておくか? これはじつに西班牙《スペイン》一国内の問題ではない。まさに全人類の牛馬に対する道徳上の重大事である。なんかと度々《たびたび》海のむこうから文句が出るんだけれど、どうしても止《よ》さないものだから、海外の識者もみんな呆れて、諦めて、この頃ではもう黙ってる。おかげで西班牙人《スパニヤアド》は誰|憚《はばか》らず牛が殺せるというものだ。
 これは、この闘牛《トウロス》を見てから二、三日してからだったが、例のドン・モラガスが私のところへやって来て、
『どうだったい、こないだの闘牛は?』
 と訊くから、私――というより、私の社交性が、
『うん。なかなか面白かったよ。|有難う《グラシアス》。』
 と答えると、彼は、
『ふふん。』
 と鼻の先でせせら笑って、
『生意気いうない。君みてえなげいこく[#「げいこく」に傍点]人に闘牛《トウロス》の味が解って耐《たま》るもんか。ほんとに闘牛《トウロス》を見るようになるまでにゃあ、君なんか、そうよなあ、もう十年この西班牙《スペイン》で苦労しなくちゃあ――。』
 私はついむき[#「むき」に傍点]になって、紅布《ミウレタ》へ挑戦する牛のようにモラガスへ突っかかって行った。
『冗談じゃない。闘牛《トウロス》なんかもう御《ご》めんだよ! 一度でたくさんだ。何だ! 一匹の牛を殺すのにああ何人も掛ったりして! ただ残酷というだけじゃない。あれあ卑怯だ。だから、見てるうちに、僕なんか牛に味方して大いに義憤を感じちゃった。すくなくとも文明的な競技じゃないね。』
 どうだ、ぎゃふん[#「ぎゃふん」に傍点]だろうとモラガスの応答を待っていると、案の条かれはにやにやして話題の急転を計った。
『うちの一座にメリイ・カルヴィンという女優がいる。』
『誤魔化《ごまか》しちゃいけない。闘牛はどうしたんだ?』
『だからその闘牛のことだが、君、メリイ・カルヴィンって名をどう思う?』
『どう思うって別に――ただ西班牙《スペイン》名じゃないな。』
『そうだ。アングロ・サクソンの名だね。事実メリイ・カルヴィンは亜米利加《アメリカ》人なんだ。』
『何だ、面白くもないじゃないか。』
『ところが面白い。』ドン・モラガスはひとりで勝手に面白がって、『いいかい。おまけに彼女は紐育《ニューヨーク》の金持のひとり娘なんだ――では、どうしてこの、紐育《ニューヨーク》富豪の令嬢メリイ・カルヴィンが西班牙《スペイン》芝居の下っぱ女優をつとめていなければならないか――ドン・ホルヘ、まあ聞き給え。これには一条の物語がある。』
 なんかと、いやに調子づいたドン・モラガスが、舞台では見られない活々《いきいき》さをもって独特の金切声を張り上げるのを聞いてみると、こうだ。
 HOTEL・RITZ――マドリッド第一のホテル――の数年まえの止宿人名簿を探すと、メリイ・カルヴィンの自署を発見するに相違ない。あめりかのちょいとした家の子女が誰もかれもするように、学校卒業と同時に最後の|みがき《ポリッシュ》をかけるべく「|大陸をして《ドュイング・ゼ・カンテネント》」いた彼女が、無事にこの西班牙《スペイン》国マドリッド市まで来たとき、それはちょうど季節《テンポラダ》で、血の年中行事が市全体を狂的に引っ掻《か》き廻している最中だった。
 すぺいんへの旅行者は闘牛だけは見逃さない。早速彼女も出かけて行った。そして勿論、正確に気絶したひとりだった。気絶どころか、二、三日食物も咽喉《のど》へ通らないで床に就いたくらいだが、こうして寝ながら、メリイ・カルヴィンは考えたのだ。どうしてああ西班牙《スペイン》人がみんな面白がって見てるのに、自分だけ気絶なんかしたんだろう? こんなはずはない。Something wrong これはきっと解ると自分も好きになるに相違ない。いや、どうしても好きにならなければならない――と、ここに妙な決心を固めて、それから一週間延ばしに旅程を変更しちゃあ毎日曜日に闘牛へ通い出した。が、やっぱり駄目だ。あのピカドウルの槍の先に血が光るのを見ると、彼女は、何と自分を叱っても身ぶるいがして来て、その次ぎもそのつぎも、二度も三度も続けさまに気絶してしまった。そこで彼女は、もの好きな話だが、すっかり残りの予定を破棄してマドリッドに腰を据え、これではならないとわざと砂に近い席へ陣取って、その季節中一つも欠かさずに、修行のように通い詰めた。言うまでもなく紐青《ニューヨーク》からは、なぜそういつまでも西班牙《スペイン》にいるのかと詰問の電報が矢のように飛来した。が、それを無視して闘牛場の石段にすわっているうちに、数度の失心ののち、ようやく刺激に慣れたと言おうか、だんだん全演技を通じて正視出来るようになって、しまいには、どんな光景に直面しても彼女は平気でいられるようになった。西班牙《スペイン》人の闘牛の「見方」が、彼女にも少しずつ判りかけたのだ。こうなると、個々の闘牛士の癖とか、無経験な見物には気のつかない危機とか、紅布《ミウレタ》の捌《さば》き、足の構えの妙味、ちょっとした手銛《バンデリラ》のこつ[#「こつ」に傍点]とか、つまり専門的に細かい闘牛眼がメリイ・カルヴィンにも備わって来て、そして、そう気のついた時、彼女はもう押しも押されもしない立派な闘牛ファンになり切っていた。
 その年の季節は終った。が、彼女は亜米利加《アメリカ》へ帰るかわりに、地方巡業に出た闘牛士を追っかけて西班牙《スペイン》じゅうを廻り歩いた。そして翌年のマドリッド闘牛場はまたメリイ・カルヴィンの姿を発見した。あめりかも紐育《ニューヨーク》も生家の富も、この血と砂の誘惑のまえには彼女にとっては無力だった。帰国を促す交渉がとうとう破裂しても、西班牙《スペイン》に闘牛があるあいだ、すぺいんを見捨てることは彼女には不可能だった。麺麭《パン》と入場料を獲《う》るために彼女は女優になった。そしてずうっ[#「ずうっ」に傍点]とこんにちに及んでいる。いまのメリイ・カルヴィンは、闘牛によってのみ生甲斐《いきがい》を感じているといっても、過言ではあるまい。
『さあ――何といったらいいか、この気持はちょっと説明出来ないが――。』
 とモラガスは、役者だけにさも困ったように首をかしげて、
『そうだな。動物に対する人間征服感の満足とでも言おうか。いや、決してそんな安価な感情じゃあないんだが、そうかと言って、君はじめ多くの外国人が考えるような、単純な「血の陶酔」でもない。勿論すぺいん人だって普通の感覚は持ってるし、闘牛以外では、ずいぶん人に譲らない動物愛護者のつもりだが――とにかく、メリイ・カルヴィンの場合なんか、メリイには、リングの牛が、不愉快なほど無神経に、愚鈍に見えてしょうがないそうだ。だから、そんな馬鹿には生きてる権利もない、どんなに虐殺しても構わない――と言ったような、自分でも不思議な、まあ一種の制裁的痛快感に、思わず拍手しちまうといってる。それに、も一つ可笑《おか》しなことは、メリイは、闘牛を見るたびにああ自分があの牛だったらと思ってぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするそうだが、この幾分変態的な戦慄《スリルス》も手伝って、一生闘牛場へ呪縛されるのがあのメリイの運命だろう――。』

     7

 槍馬士《ピカドウル》から仕留士《マタドウル》までかかって一頭の牛を斃《たお》す。これが一回。一日の闘牛にこの同じ順序を六ぺんくり返して、つまり六回に六匹の牛を殺すのだ。四時にはじまって、この間二、三時間。一回の闘牛の所要時間は約二十分|乃至《ないし》三十分の勘定だ。
 牛の背に二つの穴をあけて、ピカドウルは喝采裡に退場した。
 炎熱に走り廻って汗をかいてるところへ傷口の血が全身に滲《にじ》んで、この時はもう牛は一つの巨大な血塊に見える。
 真赤な丘だ。
 じっと立ち停まって喘《あえ》いでる。
 その影が砂に黒い。
 入りかわりにそこへ、こんどは三人の矢鏃士《バンデリエイル》の登場だ。二本ずつ六本の銛《もり》を打ちこむ役である。
 が、傷ついた牛はいま憤激の頂上に立っている。生命を守る本能にすっかり眼ざめ切っているのだ。その牛へ、ひとりずつ真正面から向って手銛《てもり》を差すのだから、このバンデリエイルの勇敢と機敏と熟練と、そして危険さこそは、闘牛のなかの見どころである。声援と衆望のうちにおのおの牛へ接近して、或る者は牛の鼻さきの砂に跪《ひざ》まずき、または側面から銛をかざして狙っている。牛が静止してる時は決して突けないものだそうで、いま躍動に移ろうとして前肢に力の入った刹那、それがバンデリエイルの機会だ。牛のほうで自分の力で銛さきへ飛び刺さって来る。だからみんな、眼を据えて、牛の肢《あし》の筋肉の微動を注視している。
 ひっそりと落ちる闘牛場の寂寞――。
 鷹揚《おうよう》な牛が洒落《しゃれ》た人間どもにいじめられてる。必ず殺されると決まってることも知らずに、牛はいま、何とかして生きようと最善を尽してるのだ。その努力が、また私をして面《おもて》を外向《そむ》けしめる。ふだんから牛の眼はどこを見てるのか解らないもんだ。この必死の土壇場になっても、「赤い小山」は一たいどこを白眼《にら》んでるのか見当がつかない。青空と砂を同時に見てるようでもあるし、ぼんやり周囲の見物席に見入ってるようでもある。悲しい眼だ。何を考えてるのだろう? 私にはそれがわかる――一体全たいこのすべての騒ぎは何のためなんだろう? 牛は不思議そうに首を捻《ひね》っている。話で判ることなら何とか折合おうじゃないか。そうも言ってる。それに、これだけ集まってる人のなかで、こんなに降参してる俺のために、一人だって謝ってくれる者はないんだろうか――牛の眼がスタンドを見渡した。私はその眼を忘れない。
 急に私は牛のために祈り出した。
 私のこころはいま秘かに奇蹟をこいねがっている。
 何とかしてここで、あの「赤い丘」が装甲戦車のような万能力をもって動き出し、闘牛士は勿論、観覧席へのし[#「のし」に傍点]上って全見物を片っぱしから押し潰《つぶ》して廻るような超自然事は起らないかしら――?
 牛も、時として復讐することがある。
 闘牛士が角に突かれて絶命するのだ。そしてそれは、このバンデリエイルと次ぎのマタドウル・デ・トウロスに多い。
 眼前の凄惨さを直視するに忍びない私に、影絵のような西班牙《スペイン》のそのまた影絵のような過去の物語がうかび上がる。
 話中話――題をつけよう。
「イダルゴとホウセリト」
 過去といっても、そう古いことじゃない。まだ五、六年まえだが、イダルゴという西班牙《スペイン》有数の女優と、ホウセリトと呼ぶ、これも名高い闘牛士とが、愛し合ってマドリッドに共同生活を営んでたことがある。女は舞台の花、男は血と砂の勇士だ。場処は太陽に接吻されるスペインである。一流同士の華やかな恋愛として、この二人が当時どんなに全市の口の端《は》にのぼったか、そして、たださえ恋巧者な南国人の、しかも女優と闘牛士だ、いかに灼熱的な日夜がふたりのあいだに続いたことか、それは想像に難くない。
 なんかと、莫迦《ばか》に女優ばかり引合いに出すようだけれど、女優と闘牛士なんて、どっちも西班牙《スペイン》の生活に重大な別社会を作ってる人気商売である。相接する機会が多く、じっさい、何だかんだとしじゅう一しょに噂の種を蒔《ま》いて世間の
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