日まで車をひいてた牛だの、そこらで田んぼを耕してた牛なんかを闘牛場へ追いこんで無理に喧嘩を吹っかけるというんではなく、闘牛士に闘牛学校があると同じに、闘牛《トウロス》にもそれ専門の牧場があって、そこでこの特別の牛類を蕃種《はんしゅ》させ、野放しのまま、ひたすらその闘争精神を育成する。野ばなしと教育とは、こうして闘牛の場合にのみ、不思議に、そして必然的に一致するのだ。そのため、父祖伝来猛牛の血を享《う》けている若牛は、山野の寒暑に曝《さら》されて全く原始牛のような生活をしているうちに、すこしも牛という家畜の概念に適合しない、完全な野獣に還元してしまう。今この闘牛牧人《ブリイダア》の苦心を叩くと、単に野放しに育てると言ったところで、そこにはやはり色んなこつ[#「こつ」に傍点]があるようだ。早い話しが、いくら放任主義だからって風邪――例のすぺいん風邪なんてのもあるし――を引かしたり、ほんとの野牛然と痩《や》せっこけたりしちゃあ闘牛として何にもならない。一方滋味佳養をうん[#「うん」に傍点]と与えて力と肉をつけながら、同時に、人に狎《な》れないように深甚な用意を払い、極度に怒りっぽく、何ものへ向っても直ちに角を逆立ててて突進し、これを粉砕せずんば止まざる底《てい》の充分な野牛だましいを植えつけ、育むのだ。つまり、しじゅう突いたり張ったりしてからか[#「からか」に傍点]って、怒ることを奨励し、そして怒ったが最後、全身を躍らせて大あばれに暴れる、というように仕込むのが闘牛牧畜の要諦である。事実この目的のためにはあらゆる専門的手段が講じられている。それから、闘牛の資格として最も大事なのは角だ。何しろ、怒牛角を閃《ひらめ》かして馬でも人でも突き刺し、撥《は》ね上げて、その落ちて来るのを待って角に懸けて振り廻す――こう言った、馬血人血|淋漓《りんり》たるところが、また闘牛中の大呼物《おおよびもの》――じっさいどんな平凡な闘牛ででも馬の二、三頭やられることは普通だし、悪くすると、リングの砂が闘牛士の生命《いのち》を吸い込む場合もさして珍しくない――のだから、この闘牛《トウロス》の角っぷり、その角度尖鋭に対する関心は大変なものだ。色んな方法で牧者は絶えず牛に、武器としての角の使用法を教え込み、自得させる。かくのごとくすること幾春秋――なんて大仰だが、闘牛《トウロス》は牛齢五歳未満をもって一条件とする。とにかく、すべての方面から観察してこれで宜《よ》しということになって、はじめてマドリッドなりセヴィラなりバルセロナなりの晴れの闘牛場へ引き出されるのだが、その時の牛は、きょうの「牛の略歴」に徴しても解るとおり、また現にいま、私の眼下に黄塵を上げて荒れ狂ってる「黒い小山」を見ても頷首《うなず》けるように、牛骨飽くまで太高く、牛肉肥大、牛皮鉄板のごとく闘志満々、牛眼らんらん[#「らんらん」に傍点]として全くの一大野獣である。この闘牛《トウロス》の値段は、なみ[#「なみ」に傍点]牛のところで一頭三千ペセタ――千円――が通り相場だが、今日のような年一回の赤十字慈善興行なんかに出場する「幸運牛」になると、あらゆる牛格を完全以上に具備していて闘牛《トウロス》中の王者というわけだから、値段も張ってまず七千から一万ペセタ――三千二、三百円――に上る。したがって闘牛養牧場《ガナデリア》―― Ganaderias ――は、西班牙《スペイン》では栄誉と金銭が相伴う最高企業の一つだ。が、立派な闘牛の産地は歴史によって昔からきまっていて、今のところ二個処ある。きょうの闘牛《トウロス》ドン・カルヴァリヨ氏――現在ここであばれてる牛の名――を出したヴェラガ公爵の闘牛場《ガナデリア》と、もう一つセニョオラ・MIURAのガナデリアと、このふたつとも南のアンダルシア地方にある。一たい闘牛士も闘牛《トウロス》も、多くこのアンダルシアから産出して、そうでないと本格でないほどに思われてるんだが、これは、ドン・ホルヘの察するところ、該方面には、人にも牛にも比較的多分にあらびや[#「あらびや」に傍点]人の好戦的血統が残留してるためだろう。
この闘牛《トウロス》をいよいよ最後の運命地、市内の闘牛場へ運び入れるのがまた大変なさわぎだ。どこまでも猛獣という観念を尊重し、巌畳《がんじょう》な檻《おり》へ入れて特別仕立ての貨車で輸送する。停車場から闘牛場まではなおさら、法律によって、檻のまんまでなければ決して運んでならないことに規定されてる。だから、単に積んだ鉄檻の猛牛に送牛人《カベストロ》と称する専門家が附いてえんさえんさ[#「えんさえんさ」に傍点]と都大路を練ってくところは大した見物《みもの》だ。さあ、これが今度の闘牛《トウロス》の牛だとあって、はじめから切符を諦めてる貧民連中なんか、せめては勇壮なる牛姿の一瞥だけでも持たばやと檻を眼がけて犇《ひし》めくのが常例だが、じっさい町中の人が護送中の牛を途上に擁して、あの牛っ振《ぷ》りなら馬の二、三頭わけなく引き裂くだろう、ことの、これあひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると闘牛士も殺《や》られるかも知れない、なんかと評判とりどり、これを見落しちゃならないというんで、たちまち切符仲買所《レベンタ》へ人が押しかける。要するにこの、御大層な警備で牛を送りこむのも、一に、これほどの猛牛だというところを公示して、一種の誇張的錯覚――なるほど猛牛には相違ないが――を流布させ、それによって人気をあおろうの、ま、謂わば広告手段とも言えよう。いつかマドリッドの大通りで、この闘牛場へ運送中の牛が、とうまる[#「とうまる」に傍点]を破って大暴れに角をふるい、死傷者十数名を出したあげく、ようやく職業的闘牛士が宙を飛んで来て、街上でそれこそ真剣に渡り合い、やっ[#「やっ」に傍点]と仕止《しと》めたなんかという椿事《ちんじ》もあった――これは余談だが、さて闘牛場では、こうして運んで来た牛を、当日まで野庭《コラレ》と呼ぶ別柵内に囲っておいて市民の自由観覧に任せ、いよいよ開演という四、五時間まえ、つまりその日の正午前後に、リングに隣接した Toriles という暗室へ牛を追いこむ。そして約半日|闇黒《くらやみ》に慣らしたのち、やにわに戸をあけて「運命の戦場」へ駆り立てるのだ。このとき、扉《ドア》を排すると同時に、上から釘《くぎ》でひょい[#「ひょい」に傍点]と背中を突いてやる。そうすると牛は、びっくり猛《たけ》り立って闇黒《くらやみ》を飛び出し、その飛び出したところに明光と喚声が待ちかまえているので、この俄《にわ》かの光線・色彩・群集・音響に一そう驚愕し、首に養牧者《ブリイダア》の勲章《デヴィサ》を飾ったまま、「黒い小山」のように狂いまわる。
6
その眼前に揶揄係《ヴェロニカ》の紅いきれが靡《なび》く。
興奮《エキサイト》した牛は、まずこれをめがけて全身的に挑み――牛ってやつは紅いものを見ると非常識に憤慨するくせがある――かかっている。
噴火のような唸り声だ。
観客はみんな腰を浮かして呶鳴《どな》ってる。
が、まだこの|怒らせ役《ヴェロニカ》が牛をあつかってるあいだは、実を言うとほんとの闘牛ではない。こうして好《い》い加減、牛の憤怒と惑乱が頂天に達した頃を見計らって、前座格のVERONICAが素早く牛を離れると、同時にいよいよ「血の本舞台《リデア》」の第一段へ這入る。
一口に闘牛《トウロス》と言っても、三つの階梯《スエルテ》から成り立つ。
1 Picadores
2 Banderillear
3 Matadores de Toros
この順序だが、1のピカドウルは馬に乗って槍《ガロチヤ》を持っている。これは、紅いきれを見せられてすっかり怒った牛の背中へ、深さ約二|吋《インチ》の穴を二つあけて、ますます怒らせるのがその任務だ。2はバンデリエイル。徒歩だ。三人出る。バンデリラという短い手銛《てもり》のような物を、正面または横側から牛の背部、首根っこへ近いところへ二本ずつ打ち込む。三人各二本だから合計六本の矢鏃《バンデリラ》を差されて、牛はおいらん[#「おいらん」に傍点]の笄《こうがい》みたいな観を呈する。そこへ単身徒歩で登場して牛に直面し、機を見て急所へ短剣《エストケ》の一撃を加えて目出度《めでた》く仕留《しと》めるのが、3のマタドウル・デ・トウロスだ。この留《とど》めをさす役が、闘牛中の花形《エスパダ》なのである。
槍馬士《ピカドウル》が出て来た。
日光と槍先と金モウルだ。
悍馬《かんば》を御して牛の周囲を駈けめぐってる。
牛は馬を狙って角を下げている。
ピカドウルの槍が走った――うわあっ! 血だ血だ! ぶくぶく[#「ぶくぶく」に傍点]と血が噴き出したよ牛の血が! 黒い血だ。血はみるみる牛の足を伝わって流れて、砂に吸われて、点々と凝って、虎視眈々と一時静止した牛が、悲鳴し、怒号し、哀泣し――が、どうせ殺すための牛だ。そら! また槍《ガロチヤ》が流れたぞ! もう一つ、紅い傷口がひらくだろう――ひっそりと落ちる闘牛場の寂寞――。
やあっ! 何だいあれあ?
棒立ちになった馬、ピカドウルの乗馬が急に紅い紐《ひも》を引きずり出したぞ。ぬらぬらと日光を反射してる。
EH! 何だって? 馬が腹をやられた? 牛の角に触れて?――あ! そうだ、数本の馬の臓物がぶら[#「ぶら」に傍点]下って、地に垂れて、砂にまみれて、馬脚に絡んで、馬は、邪魔になるもんだから蹴散らかそうとして懸命に舞踏している!
それを牛が、すこし離れてじいっ[#「じいっ」に傍点]と白眼《にら》んでる――何だ、同じ動物仲間のくせに人間に買収されて!――というように。
総立ちだ。
足踏みだ。
大喚声だ。
傷ついた馬は、騎士を乗せたまま引っ込んで行った。が、直ぐに出て来た。おや! 同じ馬じゃないか。AH! 何という ghastly な! はみ[#「はみ」に傍点]出ていたはらわた[#「はらわた」に傍点]を押し込んで、ちょっと腹の皮を縫ってあるだけだ。そのままでまたリングへ追いやる!
縫目の糸が白く見えている。
何と徹底した苦痛への無同情!
馬は、恐怖にいなないて容易に牛に近寄ろうとしない。それへ槍馬士《ビカドウル》が必死に鞭《むち》を加える。
この深紅の暴虐は、私をして人道的に、そして本能的に眼をおおわせるに充分だ。
が私ばかりじゃない。私の二、三段下に、さっきから顔を押さえて見ないように努めていた仏蘭西《フランス》人らしい一団は、このとき、耐《たま》り兼ねたようにぞろぞろ[#「ぞろぞろ」に傍点]立って行く。女はみんな蒼い顔をしてはんけちで眼を隠していた。
ドン・ホルヘは我慢する。
女のなかには気絶したのもあった。あちこちで担ぎ出されている。道理で、女伴《おんなづ》れの外国人が闘牛券仲買所《レベンタ》へ切符を買いに行くと、最初から出口へ近い座席を選ぶように忠告される。青くなって退場したり、卒倒したり、はじめての女でおしまいまで見通すのは殆《ほとん》どないからだ。だから、言わないこっちゃない。
しかし、男でも女でもこういう気の弱いのは初歩の外国人にきまっていて、西班牙《スペイン》人は大満悦だ。牛の血が噴流すればするほど、馬の臓腑が露出すればするほど、女子供まで狂喜して躍り上ってる。反覆による麻痺《まひ》だろうけれど、見ていると根本的に彼らの道義感を疑いたくなる。私は、無意識のうちに牛の肩を持っている自分を発見した。
一たい闘牛《トウロス》に対しては、西班牙《スペイン》国内にも猛烈な反対運動があって、宗教団体や知識階級の一部はつねに闘牛《トウロス》の改廃を叫んでいるんだが、この「血の魅力」はすぺいん国民の内部にあまりに深く根を下ろしている。羅馬《ローマ》法王なんかいくら騒いだって何にもならない。が、牛か人かどっちかが死ななければならないのが闘牛《トウロス》だとしたら、そして、はじめからリングで殺すつもりで育てた牛である以上、牛の死ぬのはまあ仕方がないとして、馬
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