日まで車をひいてた牛だの、そこらで田んぼを耕してた牛なんかを闘牛場へ追いこんで無理に喧嘩を吹っかけるというんではなく、闘牛士に闘牛学校があると同じに、闘牛《トウロス》にもそれ専門の牧場があって、そこでこの特別の牛類を蕃種《はんしゅ》させ、野放しのまま、ひたすらその闘争精神を育成する。野ばなしと教育とは、こうして闘牛の場合にのみ、不思議に、そして必然的に一致するのだ。そのため、父祖伝来猛牛の血を享《う》けている若牛は、山野の寒暑に曝《さら》されて全く原始牛のような生活をしているうちに、すこしも牛という家畜の概念に適合しない、完全な野獣に還元してしまう。今この闘牛牧人《ブリイダア》の苦心を叩くと、単に野放しに育てると言ったところで、そこにはやはり色んなこつ[#「こつ」に傍点]があるようだ。早い話しが、いくら放任主義だからって風邪――例のすぺいん風邪なんてのもあるし――を引かしたり、ほんとの野牛然と痩《や》せっこけたりしちゃあ闘牛として何にもならない。一方滋味佳養をうん[#「うん」に傍点]と与えて力と肉をつけながら、同時に、人に狎《な》れないように深甚な用意を払い、極度に怒りっぽく、何ものへ
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