脚下灯《きゃっかとう》に立っているんだから、止《や》むを得ない。
 で、女優イダルゴと彼女の若い闘牛士ホウセリトである。
 このイダルゴはいまだにマドリッドの劇場にかかってるが、Hidalgo というのは Somebody's daughter. つまり「何者かの娘」、「誰か名ある人の息女」という意味で、言いかえれば「貴族の娘」という芸名だ。
 或る夕方だった――それはきっと陸橋に月が懸って、住宅の根の雑草にBO・BOと驢馬《ろば》の鳴く宵だったに相違ない――ちょうどその時、マドリッドのヴィクトリア座は、イダルゴを主役とする「ヴェルサイユの王子」を出し物に大入りをとっていた。ヴェルサイユ宮殿の大奥を仕組んだもので、真暗な舞台前景の向うに女官部屋だけ明るく見せて、そこで多勢の女官が着物を着更《きか》えたりする。するとここに美貌の一王子があってその男禁制の場所へ忍びこむ。この王子を取り巻いて女官達の間に恋の鞘当《さやあて》がはじまる。と言ったような筋で、イダルゴがその美男の王子に扮して大評判だった。
 その日は昼興行《マチネエ》があった。芝居はおわりに近づいて、女官部屋の場だった。満員の観客がじっ[#「じっ」に傍点]と舞台に見入っている。そしてイダルゴの出を待っている。王子の扮装を済ましたイダルゴは、傍幕《わきまく》のかげに隠れていつものように登場のきっかけ[#「きっかけ」に傍点]を待っていた。
 が、このとき楽屋にはひそひそ[#「ひそひそ」に傍点]声の大相談が持ち上っていた。いま闘牛士ホウセリト―― Joselits ――が牛に突かれて致命傷を受けたという報《しら》せが這入ったのだ。これを早速イダルゴへ知らせたものかどうかと、みんな声を潜めて議論し合った。芝居が大事だから閉《は》ねるまで隠しておこうという説が多かった。しかし、支配人はイダルゴの気質を飲み込んでいた。あの、感情的なイダルゴのことだから、もしそんなことをしようものなら後のあとまでどんなに恨まれるか知れない。ことにそのためにつむじ[#「つむじ」に傍点]を曲げて、芝居を蹴飛《けと》ばすようなことがあっちゃあ大痛手だ。そこで、一座の反対を退けた支配人は、しずかに舞台の横へ出て行った。
 イダルゴの出は迫っていた。彼女は、歩行の調子をつけるためにそこらをあるき廻っていた。そこをそっ[#「そっ」に傍点]と支配人が肩
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