牛姿の一瞥だけでも持たばやと檻を眼がけて犇《ひし》めくのが常例だが、じっさい町中の人が護送中の牛を途上に擁して、あの牛っ振《ぷ》りなら馬の二、三頭わけなく引き裂くだろう、ことの、これあひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると闘牛士も殺《や》られるかも知れない、なんかと評判とりどり、これを見落しちゃならないというんで、たちまち切符仲買所《レベンタ》へ人が押しかける。要するにこの、御大層な警備で牛を送りこむのも、一に、これほどの猛牛だというところを公示して、一種の誇張的錯覚――なるほど猛牛には相違ないが――を流布させ、それによって人気をあおろうの、ま、謂わば広告手段とも言えよう。いつかマドリッドの大通りで、この闘牛場へ運送中の牛が、とうまる[#「とうまる」に傍点]を破って大暴れに角をふるい、死傷者十数名を出したあげく、ようやく職業的闘牛士が宙を飛んで来て、街上でそれこそ真剣に渡り合い、やっ[#「やっ」に傍点]と仕止《しと》めたなんかという椿事《ちんじ》もあった――これは余談だが、さて闘牛場では、こうして運んで来た牛を、当日まで野庭《コラレ》と呼ぶ別柵内に囲っておいて市民の自由観覧に任せ、いよいよ開演という四、五時間まえ、つまりその日の正午前後に、リングに隣接した Toriles という暗室へ牛を追いこむ。そして約半日|闇黒《くらやみ》に慣らしたのち、やにわに戸をあけて「運命の戦場」へ駆り立てるのだ。このとき、扉《ドア》を排すると同時に、上から釘《くぎ》でひょい[#「ひょい」に傍点]と背中を突いてやる。そうすると牛は、びっくり猛《たけ》り立って闇黒《くらやみ》を飛び出し、その飛び出したところに明光と喚声が待ちかまえているので、この俄《にわ》かの光線・色彩・群集・音響に一そう驚愕し、首に養牧者《ブリイダア》の勲章《デヴィサ》を飾ったまま、「黒い小山」のように狂いまわる。

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 その眼前に揶揄係《ヴェロニカ》の紅いきれが靡《なび》く。
 興奮《エキサイト》した牛は、まずこれをめがけて全身的に挑み――牛ってやつは紅いものを見ると非常識に憤慨するくせがある――かかっている。
 噴火のような唸り声だ。
 観客はみんな腰を浮かして呶鳴《どな》ってる。
 が、まだこの|怒らせ役《ヴェロニカ》が牛をあつかってるあいだは、実を言うとほんとの闘牛ではない。こうして好《い》い加減、牛
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