、やって朝から晩まで巴里《パリー》街上の風に吹かれるのが、いわばこれ私の運命なのだ。
運命だから仕方がない。だから、歩く。だから、凱旋門からAVEドュ・ワグラム、公園《パルク》モンソウからオペラ座、伊太利街《デジテリエン》から――ま、どこでもいいや。外国人――仏蘭西《フランス》人以外――のほう[#「ほう」に傍点]つき廻っていそうな通りを選んで、精々こっちも放《ほう》つきまわっているんだが、もっとも、そう言ったからって、ただ漠然とほう[#「ほう」に傍点]つき廻っているんじゃない。それどころか、実は――と、これは極く小さな声で言うんだが――探し物をしてるのである。いや、さがし「物」じゃない。探し「人」なんだ。尋ね人なんだ、つまり。
とは言え、顔を識《し》らない人を、しかも出来るだけ多勢拾い上げて来いというんだから、命令それじしんが何だか私にも一向判然しないけれど、とにかく、ゆうべラ・トトで親分が言うには、「ジョウジや、亜米利加《アメリカ》人かいぎりす[#「いぎりす」に傍点]人が一ばんいい。物欲しそうな面《つら》の、金持ちらしいのがうろうろ[#「うろうろ」に傍点]してたら、こうこうこうしてこうするように――」なんてちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と文句まで教わって出て来たんだが、なるほど、親分の言ったとおりに、物欲しそうな、金持ちらしいあめりか人や英吉利《イギリス》人――どっちも私には一眼で判る――が、到るところに大いにうろうろ[#「うろうろ」に傍点]してはいるんだけれど、さて、路上そいつへ近づいて自然らしく交際を開始する段になると――。
AH! 九月四日通りへ出た時だった。
そこの町角に立って、車道を越そうかこすまいかと沈思している一人の若い英吉利《イギリス》紳士に、私は見事 run in したのである。どうしていぎりす紳士ということが解ったかというと、その、若いくせに分別臭い顔と、手にしている洋傘《こうもり》と皮手袋と、何よりも、刹那に受ける全体の感じとによってである。考えても見たまえ。巴里《パリー》の町かどに直立して、さてこの目前の車道をこそうか越すまいかと沈思三番してるなんて、わが英吉利人以外にはなかろうじゃないか。
『やあ! お一人ですか。』
私が言った。無論、いぎりす言葉でだ。
すると彼は不思議そうにゆっくりと私の外貌を検査したのち、五月蠅《うるさ》そうに眉をひそめて、
『私と私の影と、まあ、二人伴《づ》れですね。』
と余計な返答に及んだが、私は毫《すこし》もたじろがない。
『この巴里で、影と二人きりとは確かに罪悪の部ですな。が、罪悪は時として非常に甘い。この事実を御存じですか。』
彼は黙って、何度も私の存在を見上げ見おろした。私はつづける。
『あ、そう言えば夜の巴里《パリー》の甘い罪悪――あなたは、このほうはすっかり[#「すっかり」に傍点]――とこのすっかり[#「すっかり」に傍点]にうん[#「うん」に傍点]と力を入れて、――すっかり探検がお済みでしょうな勿論。』
と、若い紳士は急に吃《ども》り出した。
『ど、どんなところです、例えば。』
私も知らないんだから、これにはどうも困ったが、
『それは、あなた自身が御自分の経験によってのみ発見すべき秘密《ミステリイ》です。』
『ふうむ。』彼は苦しそうに唾を飲んで、『――で、君がそこへ案内するというんですか。』
『いや。私じゃない。親分です。私の親分は、あなたさえ勇敢に付いてくれば、決してあなたを失望させるような人でないことを、私はここに保証――。』
『夜の巴里の甘い罪悪――。』
『そうです。どんな驚異があなたを待っていることでしょう!』
ここで、くだんの若い英吉利《イギリス》紳士の頭に、ちょいとまくった女袴《スカアト》の下からちらと覗いてる巴里の大腿《ふともも》が映画のように flash したに相違ない。
彼は、誤魔化《ごまか》すように眼《ま》ばたきをして、
『いつ?』
『今夜九時半。』
『どこで落ち合います。』
『橋《ポン》アレキサンドルの袂《たもと》で。』
彼はうなずいた。私は歩き出す。彼の声が追っかけて来た。
『いくらです、案内料は。』
『九百九十八|法《フラン》。』
『高いですね割りに。』
『あとから考えると、むしろ安いのに驚くでしょう。』
これで完全に征服された彼は、
『じゃ、今夜。』
と嬉しそうに手なんか振っていた。ざま[#「ざま」に傍点]あ見やがれ!
たった一人だが、ここに私もやっと自発による犠牲者を掴まえたわけで、どうやらアンリ親分にも合わせる顔が出来たというものだ。
あとは、夜になるのを待つばかりだが――面倒臭いからぐうっと時計の針を廻して、無理にももう夜になったことにする。
で、夜――エッフェル塔にCITROEN広告の電気文字が、灯《ひ》の滝のように火事のように、或いは稲妻のように狂乱し出すのを合図に、星は負けずにちかちか[#「ちかちか」に傍点]してタキシが絶叫し、路《みち》ゆく女の歩調は期せずして舞踏のステップに溶けあい、お洒落《しゃれ》の片眼鏡に三鞭《シャンパン》の泡が撥《は》ね、歩道のなかばまで競《せ》り出した料理店の椅子に各国人種の口が動き、金紋つきの自動車が停まると制服が扉《ドア》を開け、そこからTAXIDOが夜会服《デコルテ》を助け下ろし、アパルトマンへ急ぐ勤人《つとめにん》の群が夕刊の売台《キオスク》をかこみ、ある人には一日が終り、ほかの人には一日がはじまったところ――巴里《パリー》に、この話に、夜が来た。
4
二十五、六の、どっちかと言うと大柄な、素晴らしい美人であった。
ここはどうあっても素晴らしい美人でないと埒《らち》が開かないところだし、また事実素晴らしい美人だったんだから、私といえども事実を曲げることは出来ないわけだが――で、その二十五、六の、どっちかというと大柄な素ばらしい美人が――。
とにかく、最初からはじめよう。
巴里浅草《モンマルトル》のレストラン千客万来の「モナコの岸」は誰でも知ってるとおり昔から美人女給の大軍を擁し、それで客を惹いてるんで有名だが、この「モナコの岸」の浜の真砂ほど美人女給のなかでも、美人中の美人として令名一世を圧し、言い寄る男は土耳古《トルコ》の伯爵・セルビヤの王子・諾威《ノウルエー》の富豪・波蘭土《ポーランド》の音楽家・ぶらじる珈琲《コーヒー》王の長男・タヒチの酋長・あめりかの新聞記者・英吉利《イギリス》の外交官――若い何なに卿――日本の画家なんかといったふうに、なに、まさかそれほどでもあるまいが、まあ、すべての地廻りを片端《かたっぱし》から悩殺し、やきもきさせ、自殺させ蘇生させ日参させ――その顔は何度となく三文雑誌の表紙と口絵と広告に使われ、ハリウッドの映画会社とジグフィイルド女道楽《ファリイス》とから同時に莫大な口《オファ》が掛って来たため、目下この新大陸の新興二大企業間に危機的|軋轢《あつれき》が発生して風雲楽観をゆるさないものがある――なあんかと、いや、つまりそれほど一大騒動の原因になっているくらいの「巷のクレオパトラ」、「モンマルトルのヴィナス」、「モナコの岸」の金剛石とでも謂《いい》つべきのが、今いったこの「二十五、六の、どっちかと言えば大柄な素晴らしい美人」なんだから、たといどんなに素晴らしい美人だと力説したところで一こう不思議はないわけで、どうだい、驚いたろう。
名もわかっている。マアセルというのだ。
そしてこのマアセルは、怒涛のように日夜「モナコの岸」へ押し寄せてくる常連の誰かれにとって、すこしでも彼女の内生活への覗見《ピイプ》を持つことは、そのためには即死をも厭《いと》わない聖なる神秘であった。とだけ言っておいて、先へ進む。
ところで、二十五、六の豊満な金髪美人マアセルだが――。
も一度、最初からはじめよう。
誰も居ない真っ暗な部屋だった。しばらくするとがちゃがちゃ[#「がちゃがちゃ」に傍点]と鍵の音がして、戸があいた。廊下の光りが流れ込んだ。それと一しょに人影が這入って来た。人影は女だった。女は、手さぐりに壁のスイッチを捻《ひね》った。ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と明るい電灯の洪水が部屋を占めて、桃色に黒の点々のある壁紙が一時に浮き立った。部屋はマアセルの寝室だった。女はマアセルだった。
マアセルは今日夕方の番《シフト》だったので、いま「モナコの岸」から、近処に貸《か》りてる自分の部屋へ帰って来たところである。
あたふた[#「あたふた」に傍点]と自室へはいってきたマアセルは、うしろの戸をばたんと閉めて鍵をかけると、これで完全に自分ひとりになった安心のため、急に仕事の疲れが出て来たようにすこしぐったり[#「ぐったり」に傍点]となった。そして、第一に靴を取ると、緩慢な動作で部屋を突っ切って、衣裳戸棚の大鏡のまえに立った。天鵞絨《びろうど》に毛皮の附いた外套の下から、肉色の靴下に包まれた脚が長く伸びている。マアセルは鏡へ顔を近づけたり、離したり、曲げてみたり横から見たりした。やがてようよう満足したように手早く帽子を脱《と》って帽子を眺めた。その帽子を大事そうに向うの卓子《テーブル》の上へ置いて、ちょっと栗色の断髪へ手をやると、そのまま崩れるように椅子へかけて「あああ!」と小さな欠伸《あくび》をした。
そうしてじっ[#「じっ」に傍点]と何か考えてる様子だったが、そのうちに独り言のようなことをいいながら、立ち上って外套を脱いだ。それを乱暴に寝台へ投げかけた。それから直ぐに着物《フロック》をぬいだ。ぱちんぱちんとホックの外《はず》れる音がすると、着物はだらりと椅子の背にかかっていた。下着とブルマスとコルセットと靴下だけのマアセルだった。が、間もなく彼女は、部屋のまん中でかなぐり[#「かなぐり」に傍点]捨てるように――上半身に柔かい電灯が滑って、光った。そして顎を引いたマアセルは、ちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]と小走りに急いで、寝台の横へ行った。そこですべてを下へ抛《なげう》った。さあっと電灯の滑って光る部分が俄かに広くなった。あとは――マアセルはいま寝台の端に腰を下ろして――
美人マアセルの私生活。
SHhhh!
みんなの眼がずらりと壁に覗いているのを彼女は知らない。
ここで、マアセルを愕《おどろ》かせないように、しずかに、ごく静かに、いささか話しを後へ戻す必要があるのだ。
SHhhh! もう一度最初からはじめよう。
これより先、その夜九時半、中天に月|冴《さ》え渡るセエヌ河畔はアルキサンドル橋のたもとに、三々伍々、黙々として集《あつま》っている影坊子《かげぼうし》のむれがあった――と言うと、千八百何年かの革命党員の策動みたいで、これから暗殺でもはじまりそうでいかにも物騒だが、なあに同じ物騒は物騒でも、そんな時代めいた固っ苦しいんじゃない。その中のひとりが、今日私によって九月四日通りで捕獲された若い英吉利《イギリス》紳士である一事に徴しても判るとおりに、この群集こそは、これから一晩がかりで「夜の巴里《パリー》の甘い罪悪」を探り歩こうという、世にも熱烈な猟奇宗徒の一団であった。群集といったところで全十四人である。一たい巴里というところは、いつだってこの種の、アンリ親分に従えば「物欲しそうな面《つら》の金持ち」で、こんなことのためには即座に幾らでも投げ出そうという意気込みでふわふわ[#「ふわふわ」に傍点]となっている連中――多くは中年過ぎた外国人――をもって充満しているんだが、こういう「生きている幽霊」には、本国で紳士ぶっていなければならないせいか、妙にいぎりす人が多い。つぎは亜米利加《アメリカ》人だが、これあまあ大概の事物には興味を持つんだし、ことに金を出すことにかけちゃあ何にだって人後に落ちない気でいるんだから、この今夜の一隊《パアティ》も、例によってほとんど、英米両国の旅行者だけだったと言っていい。もちろん男ばかりである。
アンリ親分はまだ来ていない。
ところで、私が捕まえたのは若
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