「英吉利《イギリス》人ひとりなのに、どうしてこう十何人も現れて鉢合せを演じているかというと、これは勿論、ゆうべLA・TOTOで親分が「なあにジョウジ、お前《めえ》のほうはそんなに当てにしやしねえ。俺が半日ぶらつけば何十人でも網にするんだ」と豪語したように、他はすべて今日親分が街上で網《ネット》にかけたものであろう。見渡すところ、私の若い英吉利人をはじめ独身らしいのも二、三居るようだが、どうも大部分は妻子と社会的地位のありそうな分別顔だ。それがみんな、自分一人と思って出かけて来たところが、意外にも未知の同好者がこうたくさん集合しているので、相互にすっかり照れちまって、或る者は、アレキサンドル橋の欄干からセエヌの銀流へ唾をして、果して真直ぐ落ちるかどうか試験したり、他は恐ろしく澄まし返って、中天に冴え渡る月をそぞろ[#「そぞろ」に傍点]に仰いだり、または、あわてて憐寸《マッチ》をくわえて煙草を擦《こす》ろうとしたり―― in a word、どの影法師も困り入ってただやたらにうろうろしている――。
 大入満員「ラ・トト」の一卓でアンリ親分が打ち開けた言葉を、僕は思い出す。
『なあジョウジ、』と親分がいったのである。『この巴里《パリー》って町にゃあ物凄《ものすげ》えとこがあるってんで、早《はえ》え話が、いぎりす人やめりけん[#「めりけん」に傍点]なんか、汗水流して稼いだ金で遥《はる》ばるそいつを見にやって来るてえくれえのもんだ。だからよジョウジ、だから俺の商売《しょうべえ》てえのは、まあ早く言えば案内者《ガイド》だが、この物欲しそうな面《つら》の外国《げいごく》の金持ちをあつめて、一晩そんなところを引っ張りまわしてやるんだ。お前《めえ》のめえだが、それあすげえところがあるよ。何しろお前《めえ》、巴里だからなあ――もう十何年もやってるんだが、いくら馬鹿金《ばかがね》が儲かっても、そこはよくしたもんで馬鹿金を費《つか》うから、俺って人間はいつまで経っても同じこった。あははははは、ま、明日からお前《めえ》にもそっちのほうへ働いてもらうさ。』
 さて、これですっかり解ったろうと思うが、つまり親分アンリ・アラキは、「脱走船員」の私を助手に十余人の「生ける幽霊」を引具《ひきぐ》し、今から朝まで順々にその物凄《ものすげ》えところを廻ってあるこうというのだ。妙な稼業もあったものだが、これも需要あっての供給だろうから仕方がないとして、この肝腎な親分はまだ姿を見せない。
 料金は九百九十八|法《フラン》。千|法《フラン》に二法足らないきりだが、千法よりあずっと安く聞える。まるで年の暮れに猶太《ユダヤ》人の莫大小《メリヤス》屋が、一|弗《ドル》の股引《ももひき》を九十九|仙《セント》に「思い切り値下げ」して、「犠牲的大廉売」、「自殺か奉仕かこの英断!」なんかと楽隊入りで広告するような、猶太《ユダヤ》心理学派の遣《や》り方だが、事実どう算《かぞ》えたって千|法《フラン》には二法足らないんだから、やすいこた安いわけで、誰だって文句は言えまい。
 こういうわがアンリ・アラキ親分である。寄らば大木のかげで、この人の身内だからこそ、私もこうしてちったあ利《き》いたふうなことが言えるというものだ。
 まあ、it は it として――。
「夜の巴里《パリー》」の探検隊、同勢十四人。こうなると、ひとり者は世話はないが、運わるく細君のあるやつは苦しがって種々悪計をめぐらし、やれ「近頃運動不足で不眠だから一晩夜の空気を吸って歩くようにと医者《せんせい》の厳命だから」ことの、やれ「お前も知ってるとおり今やあたらしく生れ出ようとしている英仏合同一大毛織物会社の設立相談会があってこと[#「こと」に傍点]によると今夜は帰らないかも、たいていは遅くなっても帰るつもりだが、或いは、ひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると帰らないかも知れないが決して心配しないで先に寝てるように」だの、やれ「今の電話でちょっとシャルロアへ出張しなくちゃならない。商用だ。大急ぎだ。多分あすの朝は帰れるだろう」ことの、やれ「土耳古《トルコ》の伯爵に招待された」ことの「セルビヤの王子が来た」ことのと、その他|曰《いわ》く何、曰くなにと、それぞれ大奮闘の末、やっとのことで銘々の「マギイ」を鎮撫《ちんぶ》納得|誤魔化《ごまか》し果せた「ジグス」たちが、期待と覚悟と解放のよろこびに燃え立ちながら、こうしてここ、音に聞くアレキサンドル橋の袂《たもと》で、ある者はやたらに煙草をふかし、或いはしきりに欄干から唾をし、他はいや[#「いや」に傍点]に遊子ぶって中空に冴えわたる月を眺めたりなんかしてると、なかにひとり人見知りをしないお饒舌《しゃべ》りなのがいて、
『じっさい巴里《パリー》にあ大変なところがあるそうですからなあ――それに、今夜のは特選ぞろいだと言いますから、まあ、私たちは幸福人ですよ。ははははは、これでどうやら国の悪友達にも土産《みやげ》話が出来ますからね。』
 などとあちこち話しかけて歩くもんだから、それをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に一同いつの間にやら同じ上機嫌《グッド・ユウモア》に解け合って、何物をも辞しない探検家の精神《スピリット》が埃及尖塔《オベリスク》みたいに高く天に沖《ちゅう》していると――義士の勢揃い宜しくなこの騒ぎに、義士のことは知らないが何がはじまったのかとびっくりして、通行人が足をとめている。
 折しもあれ――というほどのことでもないが――そこへ大殿堂《グラン・パレ》ET小殿堂《プチ・パレ》の方角から一台の遊覧用大型自動車《シャラパンク》が疾駆して来て、待ち兼ねたみんなを拾い上げたのである。探検隊長――まるでアムンぜンかノビレみたいだが――アンリ・アラキが、運転手と並んで腰かけていた。
 午後九時四十五分。彼は、出発に際して隊員に一場の訓示を与えた。仏蘭西《フランス》大使のように流暢なふらんす語だった。
『出かける前に広告はしません。すぐに実物が証明するからです。またどこどこへ行くかということもわざと明言しません。好奇心のためです。ただ必要上、最初の一つだけをここにお話ししましょう――。すでにあなた方も御存じの通り、巴里浅草《モンマルトル》のレストラン千客万来「モナコの岸」は、昔から美人女給の大軍を擁し、それで客を惹いてるので有名でありまするが、そのなかでも美人中の美人として令名一世を押しつけ、「モンマルトルのクレオパトラ」と呼ばれているのが、マアセルと申す当年取って二十五、六――割引無し――のどっちかというと大柄な、素晴らしい美人でありまして――。』
 と、つまり、マアセルに関して、はじめに私が説明した全部は、そっくりこの時の親分の言なんだが、えへん! と親分はここで咳払い――もちろん流暢な仏蘭西語で――をして、あとを続けた。
『で、この万人――いや、厳正には万男――渇仰《かつごう》の的たるマアセルの私生活をこっそり[#「こっそり」に傍点]お見せ申すのが、本計画の第一歩でありまするが、前もって特に御注意申し上げたい一事は、私はマアセルの泊っているアパルトマンの夜番に莫大な金を掴ませて特別にその仕掛けをほどこし、それでこうして皆様をお伴《つ》れ申すことも出来るわけですが、いま言ったように、夜番の男は抱き込んでありますけれど、当のマアセルはもとより、他の止宿人は何も知らないのでありますから、先方へ参りましたならば、いやが上にも御静粛に、咳くしゃみ等はもちろん、物音一つお立てにならないよう、これだけは切にお願い申す次第であります。「モナコの岸」の美人女給マアセルが、誰も見ていないと思って自分の寝室でいかなる行動に出《いづ》るか――聖なる神秘はあなた方の行手に! これによってまず些《いささ》かの御満足を与え得れば、案内するわたくしとしては幸福そのものであります。くれぐれも規則を厳守下さるよう――では、出掛けます。』
 というんで、規定の案内料を徴集したのち、一同を乗せてぶう[#「ぶう」に傍点]と動き出した探検自動車が、夜の巴里《パリー》を走りに走り、廻りに廻って、やがてぶう[#「ぶう」に傍点]と停止したところが、モンマルトルの山の下なるこの貸間館《アパルトマン》のまえ。
 ぞろぞろ降りる。夜番が横手の戸をあける。親分の先頭でMAIを含み、跫音《あしおと》を窃取《せっしゅ》して上って来たのが、三階のこのマアセルの部屋の隣室。マアセルの室内の壁紙に黒いぽちぽち[#「ぽちぽち」に傍点]の模様があって、その点々に、眼に見えないほどの小さな穴が開いている。そこへ外側から一つずつ覗き眼鏡みたいなものが取りつけてあるから、マアセルの有する全部は各人の鼻っ先だ。
 親分は廊下に立って待っているんだが、出発に際しての彼の心配は全然|杞憂《きゆう》に帰して、隊員は、しわぶき[#「しわぶき」に傍点]どころか呼吸《いき》を凝らしている。鬚と奥さんを持つ紳士にとって、女の生活なんてとっくに卒業して飽きあきしてるはずなんだが、度々いうとおり相手が「モナコの岸」の女王なのと、その、誰も見てるものがないという確信で、着物と一しょにすべての気取りを除去したあとの赤裸々さと、また別の興趣が期待出来るとみえて、こうしてみんなじっと覗きながら、固唾《かたず》を飲んで待ち構えた。ところへ――前に言ったように、「モナコの岸」から美女マルセルが帰って来て、竹の子みたいに一枚々々着衣を脱して、そうして、そうして、ええと――どこで話が後退したんだったけな?
 ――そうだ、マアセルは今や寝台に腰かけてするする[#「するする」に傍点]と靴をぬいでいる――。
 やがて、ざあっ[#「ざあっ」に傍点]と水の音がし出した。
 壁の穴は模様のぽちぽち[#「ぽちぽち」に傍点]に隠れて内部からは気がつかない。
 誰も見てないと思うから、マルセルだって平気だ。部屋を横切って、浴室の扉《ドア》をあけ放したまんま、お湯の栓を捻《ねじ》っている。お湯は直ぐ一ぱいになった。ちょっと手を入れてみて、マアセルは、熱《あつ》う! というように顔をしかめた。見ている隊員が躍起になって「水をうめろ水を」と心中に絶叫する。言われるまでもなく、マアセルは事務的に水を出した。そして、ゆっくりお湯につかって、しずかに天井を研究している。
「女給生活の一日」――なんてことを考えているに相違ない。
 と、突然立ち上った。赤くなったマアセルだ。それが、いきなり自暴《やけ》にそこここ洗い出した。石鹸《しゃぼん》の泡が盛大に飛散する――と思っていると、ざぶっ[#「ざぶっ」に傍点]とつかって忽《たちま》ち湯船を出た。烏《からす》の行水みたいに早いおぶうである。
 あとはもっと簡単だった。丁寧にタオルで拭いたマアセルは、浴室をそのままにして寝室へ帰って来た。鏡台のまえで顔に何か塗りつけた。そして今は、姿見に全身を映してみて、さかんに嬌態《しな》を作っている。
 両手を腰に片っぽの肩を上げて爪立ちしたり、真直ぐに立って体操の真似をしたり、櫛《くし》を持ってきて髪を色々にアレンジしてみたり――そのうちにふふふ[#「ふふふ」に傍点]と思い出し笑いをした。同時に、何か低声《こごえ》に唄い出した。
 笑っているマアセル。
 唄っているマアセル。
 ちら[#「ちら」に傍点]と――どころかすっかり裸身を見せている「モナコの岸」のマアセル。
 AaaaAH! とマアセルは伸びをした。寝台が大きく浪をうって、マアセルの全体重を受け取った。そしてマアセルは、好きなように安楽[#「安楽」に傍点]な姿態[#「姿態」に傍点]で赤本《あかほん》を読み出した。しばらく読んでいたが、いつしか本を持つ手が横ちょにさがり、やがてその本がぱったり[#「ぱったり」に傍点]と床を打つと、マアセルは床覆《カヴァ》の上で眠り出した。すこし口を開けた大の字なりの金髪美人を照らして、室内には、消し忘れた電灯がいや[#「いや」に傍点]にかんかん氾濫している――。
 拡大鏡の向うで、白い大きな脚がさまざまに動いて、マアセルは寝返りを打った――隊
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