ーたのである。下には――彼女だった。それが――と思うと、やにわにテエブルの角を跨《また》いで、しばらく適度に苦心|惨憺《さんたん》したのち、その十|法《フラン》札を挟んで悠々と持って行ってしまった。それはじつに、習練と経験を示《アウト》す一つの芸だったと言わなければならない。
 瞬間の驚きから立ち返ると同時に、みんなは争って卓子《テーブル》の隅へ金を出した。だから同時に、あっちでもこっちでも、狭いテエブルの間にこの白い曲芸が演じられている。奥様ふうなのも踊子も、令嬢みたいなのも女給々々したのも。みな一せいに――。
 へんに眼の光る、圧迫的な沈黙がつづいた。そのなかで、高く着物を押さえた女たちが、卓子《テーブル》から卓子へ移って秘奥《ひおう》をつくし、男たちはすべて、誰もかれも無関心らしく頬杖《ほおづえ》なんか突いていた。じっさいそれは、私達の持つ文明と教養を蹂躙《じゅうりん》しつくして止《や》まない、奇異な悪夢の一場面であった。
 みんないつまでも金を置くから限《き》りがない。
 酒番のお婆さんは、語らなそうにそこらを拭いている。
 アンリ親分は超然として壁に煙草を吹きつけていた。


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