煤uへんてつ」に傍点]もない、薄よごれた服装《なり》の日本のお爺さんだったが、それがにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら自分の酒杯《グラス》ひとつ持って私の食卓へ移ってきたのを見ると、私だって相当苦労を積んでるから三下《バム》か親分《ボス》かくらいは一眼で識別出来る。その、先生《シンサン》ばくちの貸元みたいに小柄なくせにでっぷり[#「でっぷり」に傍点]肥った巴里《パリー》無宿のアンリ・アラキ老――これは間もなく名乗りを聞いてわかったんだが――の身辺には、「七つの海」の潮の香がすっかり染みこんで、酸《サワ》も甘味《スウィイト》も舐《な》めつくしたと言ったような、一種の当りのいい人なつこさが溢れ、そしてその黒い細い眼の底に、若《わけ》えの、ついぞ見ねえ面《つら》だが、近頃めりけん[#「めりけん」に傍点]からでも渡んなすったかね? といいたげな、いかさま大胆沈着・傍若無人の不敵な空気が、世慣れたこなし[#「こなし」に傍点]とともにうっそり[#「うっそり」に傍点]と漂っているんだから、瞬間にして、私は思った。ははあ! これはただの旅人ではない。まさしく何のなにがしというれっき[#「れっき」に傍点]とした名のある大親分であろう、と。
だから、彼のあいさつに対しても咄嗟《とっさ》に私は幾分の敬語を加味して答えたくらいである。
『|やあ《アロウ》! 一人かね?』
『は。お一人ですか。』
こうして私の前にどっか[#「どっか」に傍点]と――じっさいどっか[#「どっか」に傍点]という親分的態度をもって――腰を下ろしたアンリ・アラキは、どういうものか最初から私を「馬耳塞《マルセイユ》から脱船してきた下級船員」に決めてかかっていたのだ。いつだって親分にさからうことは幾分の危険を意味するし、ことにこの際、べつにNON! なんかとわざわざ反対の意思を表明して立場をあきらかにする必要もないから、長い物には巻かれろで、そのままおとなしく「脱走船員――海の狼」に扮し切った私は、さてこそで、ちょいとこう船乗りらしく肩を揺すってぽけっとから紙《パピエ》を取り出し、そこは兼ねて習練で煙草を巻き出したんだが、この私の手の甲にさしずめ錨《いかり》に人魚でもあしらった刺青《ほりもの》でもあると大いに効果的で私も幅がきくんだけれど、無いものはどうも仕方がないとは言え、私はすくなからず気が引けている。が、そ
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