\―が、多分の冒険意識をもって徹宵《てっしょう》巴里の裏町から裏まちをうろ[#「うろ」に傍点]つくつもりで、ちかちか[#「ちかちか」に傍点]する星とタキシの――に追われ追われて真夜中の二時ごろ、このサ・ミシェル――サン・ミシェルなんだが巴里訛《パリーなまり》はNが鼻へ抜けるためほんとうはこうしか聞えない――の「ラ・トト」へ紛れ込んで、国籍不明の「巴里の影」の一つになりすました気で大いに無頼な自己陶酔にひたっている最中、先方にしてみれば何もそこを狙《ねら》ったわけじゃあるまいが、まったく狙撃されたように飛び上ったほど――つまり私はびっくり[#「びっくり」に傍点]したんだが、いきなりしゃ[#「しゃ」に傍点]嗄《が》れ声の日本言葉《ジャポネ》が私の耳を打ったのである。
『|やあ《アロウ》! 一人かね?』
というのだ。断っておくが、この場合、その質問者は何も特に当方における同伴――男女いずれを問わず――の有無に関して興味を感じてるわけではなく、第一、ひとりか二人か見れあ直ぐ判るんだし、これは、言わばただ、おや! こいつあ何国《どこ》の人間だろう? お国者《くにもの》かな? 一つ探りを入れてやれ、と言ったくらいの外交的言辞に過ぎないのだ。これでむっつり[#「むっつり」に傍点]黙り込んでいると、何でえ、支那《シノア》か、ということになって、鑑別の目的は完全に達せられる。じっさい頭から「お前は日本人だろう?」では放浪紳士に対して露骨《ルウド》に失するから、そこでこの挨拶のような挨拶でないような、ばかに親密な質疑の形式がいつの世からか発見されたもので、これは私たち世界無宿のにっぽん[#「にっぽん」に傍点]人間における一つの「仁義」である。つまり「港のわたり[#「わたり」に傍点]」なんだが、そんなことをしなくても日本人同士は一眼で判りそうなもんだと思う人があるかも知れないけれど、どうしてどうして一歩日本国を出てみると、早い話が、支那人だの馬来《マレイ》だのハワイアンだの印度《インド》だの、西班牙《スペイン》だの伊大公《デイゴ》だの91――9+1=10で猶太《ジュウ》――だのと「その他多勢」いろいろと紛らわしいやつ[#「やつ」に傍点]が出没しているから、何事も必要は発明のおっかさんなりで、ちょいと石を投げる心もちでこの「やあ! 一人かね?」をやる次第で、これによって日本人という事も確
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