てそのポプラと白樺の葉を掻《かい》ている。私達はいつまでもベンチに腰かけていた。
雨後・坂みち・さむぞら――これが私のオスロ風物詩だ。
では、これから陸路|瑞典《スエーデン》へ出て、ストックホルムへ行こう。
というので、オスロ・ストックホルムのあいだに退屈な一日の車窓を持つ。
アモトフォス――イダネ――ファエラス――スクラトコフ――スタフナス――オルメ――スワルタ――ファラ――これがみんな停車場の名。すでに名だけで充分なところへ一々とまって、おまけに長く休むんだからやり切れない。
この間、満目の耕野に灌漑《かんがい》の水の流るるあり。田園の少婦踏切りに群立して手を振るあり。林帯小駅に近く、線路工事の小屋がけの点々として落日にきらめくあり。夕餉《ゆうげ》の支度ならん。はるか樹間《このま》の村屋に炊煙《すいえん》の棚曳《たなび》くあり。紅《べに》がら色の出窓に名も知れざる花の土鉢をならべたる農家あり。丘あり橋あり小学校あり。製材所・変圧所・そして製材所。アンテナ・アンテナ・アンテナ。それらを遠景に牛と豚と牧翁の遊歩するあり――で、ようやくにして宵やみとともにストックホルム市に着けば、巷の運河に一〇〇八の灯影がゆらめいて、見慣れない電車に灯がついて走り、タキシの溜りへ旅行者とスウツケイスが殺到し、それを巡査が自信と熟練をもって整理し、柳の幹に寄席の広告が貼られ、その下に恋人を待って女が立ち、橋をゆるがせてトラックが過ぎ、運河の遊覧船からラジオのジャズが漂い、帆柱は交錯し、建築はあくまでも直角に―― Here we are in STOCKHOLM.
三つの王冠
未知の町を掴もうとする場合、最初の方法として一ばんいいのは高いところに上って見おろすことだ。
これに限る。そして、それにはストックホルムは有難いというわけは、ジュルガルデン市街島の丘にスカンセンなる公園兼|屋外博物館《オウプン・エア・ミウゼアム》があって、そこにべらぼうに高いブレダブリクの塔――二四六|呎《フィート》――が立っているから、その頂上へ登るとストックホルムとその近郊は指顧《しこ》のうちだ。
ストックホルムのぷろぐらむからこのスカンセンは省略出来ない。北欧諸国の動植物と民族的記録の実物がここ七十英町の変化に富む地形に集まっていて、ことにヴィスビイ島の模形市街、ラップ族の生活状態などは学術的にも著名である。出かけるには夕方を選ぶといい。それも、ダンスプランという瑞典《スエーデン》各地方の踊りのある日でなければ駄目だ。この民俗だんすは、女たちが昔ながらのその土地々々の服装をつけて踊るんだから一度は見る必要がある。晩餐はイデュンハレン料理店の戸外《そと》の一卓でしたためること。音楽と夕陽と郷土服の女給たちが、スウェイデン料理とともに一夕の旅愁を慰めるだろう。
こうして陽の沈みかけるのを待って、さ、ブレタブリックの塔へのぼろう。
塔上、北欧のネロを気取る。
「北のヴェニス」は脚下にひろがって、バルチックの入江とマラレンの湖水。みどりの沃野《よくや》にかこまれた「古い近代都市」のところどころに名ある建物がそびえ、水面に小蒸汽がうかび、白亜《はくあ》の道を自動車が辿り、この刹那凝然としているストックホルムのうえに、北の入日は七色の魅魍《みもう》を投げる。
寺院が見える。いくつも見える。そのなかで「瑞典《スエーデン》のパンテオン」と呼ばれる、リダルホルムス教会《キルカ》――|騎士の島《リダルホルムス》という語意だが――この歴代の王様を祀《まつ》ってある壮麗な拝殿の内部、古い木の尖塔《スパイア》の反対側の角のところに、日本先帝陛下を記念し奉る御紋章が安置してある。菊の御紋の周囲に王冠と獅子頭が互いちがいに鎖状をなしている金の装飾、おそれ多くも下にこう書かれてあった。
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H. M. Kungleg
de Japon
YOSHIHITO
Dec. 25−1926
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御崩御の電報がストックホルムへ達したとき、この「騎士島《リダルホルムス》」の寺の鐘は半日市の低空に鳴りひびいたという。私たちが参拝したのはあとのこと。いまはまたスカンセンの塔へ帰ろう。
三つの王冠――瑞典《スエーデン》の国章はどこにでも見受ける――が陽にきらめいている水辺高層の楼閣――ストックホルムが世界に誇る新築の市役所である。旅人はこの町で誰にでも「もう市役所はごらんになりましたか」と訊かれるだろう。正面入口まえの芝生にストリンドベルグの裸身像。抜け上った額に長髪、両手を胸に陰惨な顔をして立っている。それはいいが、この市役所の時計台には大金をかけてユウモラスな仕掛けがしてある。高い壁に小さい戸があって、支那人みたいななりの人形が番人然と構えているから、何かと思ったら、正十二時に金製の小人形が四つ、流れるように順々に出てきて向側の戸へ消えるのだ。私達はわざわざ正午に出かけて行って見たんだが、その四個の時計人形は士農工商を象徴しているらしい。単なる好奇な飾りだろうけれど、それにしても、生真面目な金いろの小さな人形が四つ、ひょこひょこ出てきて引っ込むところはいかにも現代ばなれがしていて、北の水郷の大人たちのお伽噺《とぎばなし》趣味をよくあらわしていて面白いと思った。諾威《ノウルエー》から来てどことなく明るい感じのするのは、ことによるとこの人形のせいかも知れない。
さて、ふたたび塔の上から眼を放つと、市の端《はず》れの小高い坂の角に、城塞めいた円《まる》い家が注意をひく。
これはグルドブロロプス・ヘメットという国営のアパアトメントで、大いに曰《いわ》くがある。一九〇七年に死んだオスカア二世が、その前年の結婚五十年記念に、国民のお祝い金で建てて一般公衆へ寄附したもので、結婚五十年の歴史――再婚や三婚や四婚や五婚、以下略、はすべて資格がないんだろうと思うが――を有する老夫婦――五十年経てばたいがい老夫婦に違いあるまいが――なら誰でもはいれて、間代だけは国家もちで生活出来るのだ。つまり、よく五十年も我慢した、両方とも豪《えら》い! というんで、国家的勇士としての栄誉と待遇をあたえるわけなんだろう。これを目的にして国じゅうの「われなべにとじぶた」が鍋も蓋もじっ[#「じっ」に傍点]として、あんまり「自由」を求めたり急に「自由意識にめざめ」たりしないとすれば、人間オスカア二世は、仲なかどうして世話なおやじだったと言われなければならない。
塔をおり、木の下路のうすやみをくぐってスカンセンを出る。ある日、ぶらぶら町を歩いている。
と、突然歩道に立ちどまった彼女が眼を円くして言った。
『あらっ! おみおつけ[#「おみおつけ」に傍点]のにおいがする!』
とこれはじつに容易ならぬ発表である。私は思わず急《せ》きこんだ。
『え? ほんとうかい――。』
が、ひるがえって常識に叩くに、このストックホルム市の真ん中にぷうんとお味噌の香《におい》がするということは首肯《しゅこう》出来ない。しかし、この彼女の一言は俄《にわ》かに私たちふたりを駆って発作的ノスタルジアの底に突き落すに充分だった。それによって私は、北の都の中央にあって豆腐のらっぱを聞き、夕刊配達の鉢巻きを見、そうして日本の「たそがれ」を思ったからだ。あまりの表情のない石と鉄と機械の生活――自然はすべて西洋の世界を見すてている――なんかと、そんな述懐はあとまわしにして、そこで私は考えたのである。これはきっと日本の神様が彼女をしてかく叫ばしめ、つまり「味噌汁の香《におい》」なる一つの民族感覚を中介《ミデヤ》としていま何事か私たちに知らせようとしているのではあるまいか――。
『ことによるとその近処に日本料理の家があるぜ。』
『まさか――。』
『支那めしでもいいじゃないか。とにかく御飯が食べられるんだから――。』
というので、夫婦相携えてやたらにそこらを歩きまわっていると――またもや彼女が眼をまるくして叫んだ。
『あ! ありますよあすこに!』
見ると、なるほど広場の角に大きな看板が出ている。MIKADOとパゴダ式に縦の電気文字だ。やれ嬉しやと手に手を取って駈けつけて見ると、なあんだ! 飾り窓にやくざ[#「やくざ」に傍点]な色ちぢみのキモノが並んで、けちな東洋雑貨の店だった。みそ汁のにおいはついに彼女の錯覚だったのである。だってほんとにしたんですもの――と、彼女はいまだに頑張ってはいるが――。
アルセナルスガタン通りを散歩していたら、そこの一番地に「日本美術」と日本字の看板が下っていた。これは! と思って入口を覗くと、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]とこう御丁寧な日本語の標札まで貼ってある。
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瑞典《スエーデン》国ストックホルム市
ヤポンスカ・マガジネット支配人
エスキル・アルトベルグ
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アルトベルグさんは学者肌の中老の紳士で、私達が戸を排したときは、ちょうどお客のお婆さんに日本の紡績|絣《がすり》を一尺ほど切って売っていた。店内は日本の品物をもって埋《うず》まり、蓙《ござ》・雨傘・浮世絵・屏風・茶碗・塗物・呉服・小箱・提灯《ちょうちん》・人形・骨董・帯地・着物・行李《こうり》・火鉢・煙草盆――一口に言えば何でもある。ことに鍔《つば》と「ねつけ」の所蔵は相当立派なものらしい。写楽、歌麿、広重なんかも壁にかかっている。珍客――私達――の出現にすっかりよろこんで、お客のほうは女店員に任せっきり、いろいろ江戸時代の絵を出して来たり、自分の著した“Netsuke”と題する研究的な一書を見せたり、そのあいだも、何にするのか女中のお仕着せみたいな染め絣が一尺二尺とよく売れて行く。
アルトベルグさんは非常な論客だ。ほとんど完全に近い知識階級の日本語でまくし立てる。
『日本はほんとにいい国です。私も度々《たびたび》行きました。また行くつもりです。しかし、もうあんまり掘出し物はありませんな、高価《たか》いばかりで。いや、たかいの何のって、とても私なんかにあ手が出ません。この写楽はいいでしょう――が、このへんになるとどうも――それから広重――と、氏は読みにくい昔の日本文字を自由に読みこなして――東海道五十三次|掛川之宿《かけがわのしゅく》。どうですこの藍の色は! 嬉しいですね。さあ、ほうら! 歌麿です。この線――憎いじゃあありませんか。ねえ、この味が判らないんだから、毛唐なんて私あんなけだもの[#「けだもの」に傍点]だって言うんです。』
とだんだん昂奮してきて、
『それあ私も西洋人ですけれど、西洋の文明はもうおしまいですね。退歩しつつあります。なっちゃいないんですからねえ。まるで泥棒ときちがいの寄合《よりあ》いだ。自制なんかということは薬にしたくてもない。一に金、二に金、三に金、が、金が何です! 金よりも心でしょう! 強いこころこそ国と人のたからです!――まあいい。こいつらがこうやって物質にばかり走って好《い》い気になってるあいだに、日本はどんどん心の修養を怠りません。そのはずです。心のないところに何があり得ましょう! じっさい私は「|東洋の心《オリエンタル・マインド》」というものを幾分か理解し、そしていつも尊敬しています。』
彼は奇妙な慷慨家《こうがいか》肌の男で、熱してくると、いつか眼にいっぱい涙を持っていた。
古いストル・トルグの広場――一五二〇年|丁抹《デンマアク》の暴王クリスチャン二世がここでスウェイデンの貴族達を虐殺したという、歴史に有名な「血の浴《ゆあ》み」のあと。株式取引所のまえだ。黒い石畳。
ここへ行ったら、ついでに近くの、ゲルマン時代からある地下室料理デン・ギュルデン・フレデン――オステルランガタン五一番――へ寄らなければならない。画家アンデルス・ゾルンが買い取ってアカデミイへ寄附したもので、場処それ自身も芸術的に面白く、おまけに料理がいい。この家を訪《と》わずにストックホルムを去るなかれ。
帝室公園の森《ハガ》の奥に「建たなかっ
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