た宮殿のあと」というのがある。いわれを聞いてみると、グスタフ三世がヴェルサイユと同じプランで一七八一年から九二年まで十二年かかってやっと土台だけ出来た時に、暗殺されてしまったのだと。だから「建たなかった城のあと」で、畳々《じょうじょう》たる石垣と地下室と隧道《とんねる》が草にうずもれ、|大きな松《タアル》、|小さな松《グロウ》――青苔で足が滑る。
 森《ハガ》の入口、カペテントという野外カフェへ這入る。十七世紀の近衛兵営舎。門に一|風致《ふうち》。お茶一杯一クロウネ十四オウル。
 郊外ドロットニングホルムでは、「王の小劇場」だけは見なければならない。近代的なプロンプタアBOX、天使の降りる雲、その天使や悪魔の消滅する仕かけ等すっかり調《ととの》っていて、観覧席には当時のままの標字が残っている。騎士席、侍従席、侍女席。ずっと上のほうに宮廷|理髪師《フリイジア》席、宮廷靴磨き席、宮廷料理人席――何と華やかな笑い声の夜をこれらの席名が暗示することよ! 光る鎧《よろい》と粋な巻毛の鬘《かつら》と、巨大なひげ[#「ひげ」に傍点]と絹のマントと、股引《ももひ》きと道化者と先の尖った靴と!
 エレン・ケイが死んでから二年になる。
 二日がけで西南バトン潮に沿うヴァッドスナ町に彼女の家を訪ねた。家の名をモルバッカ“Morbacka”という。女史の遺志によって今は一種の婦人ホウムになっている。湖畔の一夜。
 そうだ。
 もっと――もっともっと北へのぼろう。
 バルチックを横断してフィンランドへ――となって、そこで或る薄暮。
 うら淋しいスケプスブロンの波止場からS・Sオイホナ号へ乗りこむ。
 雨の出港。濡れる灯のストックホルム。
 バルチック海。
 と、たちまちまた小別荘、松、灯台を載せた小群島《アウチペラゴ》が私たちのまわりに。
 船に近くあるいは遠く、蟠《わだか》まり、伸び上り、寝そべり、ささやきあい、忍び笑いし、争ってうしろへ消えていく驚くべき多島――これから芬蘭土《フィンランド》へルシングフォウスまで海上一昼夜の旅だ。やがて新興の Land of Thousands Lakes が私達のまえにほほえむだろう。
 風が出た。
 鉄綱《ワイヤ》のうなりが一晩耳につく。

   SUOMI

 フィンランド共和国は欧羅巴《ヨーロッパ》の最北端に位し、北緯六十度と七十度のあいだにある。しかしその割りには暖かくて、夏のおわりがちょうど日本の四、五月だった。深夜たびたび停船して水先案内を乗せたオイホナ号は、島の多い、というより凸起《とっき》した陸地の間にわずかに船を通すに足る水の、フィンランド湾の岸にそって、午前十時ごろ、半島の町ハンゴへ寄り、それからまた原始的なアウチペラゴのなかを、午後おそくこの国最大の都会である首府へルシングフォウスへ入港した。途中あちこちの小島の岩に大きく白くHasselholmenなどと島の名が書いてあるのを見る。夏のヴィラがあって人が住んでいたのだ。
 フィンランド国――芬蘭土《フィンランド》語ではスオミ、Suomi ――の首府へルシングフォウス――芬蘭土《フィンランド》語でヘルシンキ――は、密林と海にかこまれた、泣き出したいほどさびしい貧しい町だった。
 一九一八年に露西亜《ロシア》から独立したばかりで、そのとき四箇月間「人民の家」と称する共産党政府に苦しめられたことを人々はまだ悪夢のように語りあい、ソヴィエットの風が北部西欧へ侵入してこようとするをここで食いとめる防壁《ブルワアク》をもってみんな自任している。そのためと明かに公言して、国民軍の制度が不必要と思われるほど異常に発達し、四箇月の軍事教育ののちに属する国民軍なる大きな団体が、政治的にも社会的にも力を持っている。これに対立して露系共産党の策謀あり、この北陬《ほくすう》の小国にもそれぞれの問題と事件と悩みがあるのだ。何だか「国家」の真似事をしてるようで妙に可愛く微笑みたくなるが、しかし、同時にその素朴さ、真摯《しんし》な人心、進歩的な態度――約束されている、フィンランドの将来には何かしら健全で清新なものが――気がする。
 が、世界で一ばん古い独立国からの旅人の眼に、この世界で一番あたらしい独立国は、ただ雪解けの荒野を当てもなくさまようようにへんに儚《はか》なく映ったのは仕方ないのだろう。歴史的、そして地理的関係上、瑞典《スエーデン》の影響をいたるところに見受けるのはいうまでもない。国語もふたつ使われて、上流と知識階級はスウェイデン語を話し、他はフィニッシである。だから町の名なんかすべて二つの言葉で書いてある。語尾に街《ガタン》とついているのが瑞典《スエーデン》語、おなじく何なに街《カツ》とあるのが、芬蘭土《フィンランド》語で、地図も看板もそのとおりだから、旅行者はすくなからず魔誤々々《まごまご》してしまう。
 ホテルでは、日本人の夫婦が舞いこんで来たというんで大さわぎだ。それには及ばないというのに、番頭が大得意で町の案内に立つ。
『これが郵便局です。どうです、素晴らしい建物でしょう? それからこれが停車場、あれがグロウハラアの要塞――。』
 一々感心したような顔をせざるを得ない。人には社交性というものがあるし、それにこの単純なフィンランド人を失望させたくないから――そこで、ありきたりの建物にも最大の讃辞を呈し、寒々しい大統領官邸にも最上級の驚嘆を示し――番頭は上機嫌で商売なんかそっち[#「そっち」に傍点]のけだ。
 エイラの島の絶景に大いに感心し、つぎに船着場の花と箒《ほうき》の市場にまた大いに感心し、それから「異国者《フォリソン》の島」の博物園では十六世紀のお寺と、お寺の日時計・砂時計・礼拝中に居眠りするやつを小突くための棒・男たちの wicked eye から完全に保護されている女だけの席・地獄の絵・審判の日の作り物・うその告白をした女を罰する足枷《あしかせ》――それらにまんべんなく感心してしまうと、もうありませんな、と番頭のほうが困っている。可哀そうで、まあ君、これだけ見せてもらえばたくさんです。そう悲観したもうな、と慰めたくなる。
 その他、ついでに感心すべきものを附記すると、S・Sデゴロという船で一夕の島めぐり。夕陽をとかす水、島、岩、松、白樺、子供、葦《あし》を渡る風、小桟橋、「郊外の住宅へ帰る」ようにデゴロビビウだのヴォドだのイグロなんかという恐ろしげな名の島へ上陸して行くヘルシンキの勤人《つとめにん》、家の窓からそれを見て小径《こみち》を駈けてくる若い細君、船員が岸の箱へ押し込んで廻る夕刊と郵便物、今朝《けさ》頼んでおいた砂糖やめりけん粉の買物を船長さんから受取るべく船を待っている主婦たち――ここにも同じょうな人間の生活が営まれていることをいまさらのようにしみじみと思わせられる。
 それから、こんどは美術館《アテネアム》に感心しなければならない。ミレイとコロウとドガが紛れこんで来ている。
 もう一つ、お土産品を売るというんで自他ともに許しているはずのミカエル街ピルチの店に、売子と埃と好意と空気の他何ひとつ商品のないのに最後に感心。
 近処に常設館がふたつあって、夜になると不思議にも電灯がともる。一つを「ピカデリイ」、他はオリムピアと呼号し、前者はいま――というのは私のいたとき――ロン・チャニイ主演「刑罰」、後者はアイリン・プリングルとチェスタア・コンクリン共演の喜活劇を上映していた。ほかのいわゆる先進国、ことに日本の私たちは、もっとシンプルな享楽を享楽し、より謙遜な歓喜を歓喜としなければならないことをこの中学生みたいに若々しい人々によって教えられたような気がした。
 ブランス公園のうらの小池に The Waiting Girl と題する少女の裸像があるが、この、どんよりした沼のまんなかに蹲《うずく》まっている田舎の処女の姿こそは、私の印象するSUOMIの全部だ。
 どこからでも見えるもの――旧ニコライ堂。
 どこにでも見かけるもの――OSAKEという広告《サイン》、と言っても、禁酒国だから酒場《バー》ではない。「オサケ」は会社のこと。
 フィンランドの産物――挽《ひ》かない材木と挽いた材木。ランニング選手、ヌルミとリトラと無数のその幼虫。
 さて、もっと、もっともっと北へ進もう――というんで、涙の出るようなさびしい、けれど充分近代的で清潔なフィンランドの汽車が、内部に私達を発見した。
 夜行。奥地の湖水地方へ――イマトラ――サヴォリナ――プンカハリュウ――ヴィプリ―― And God knows where !

   奥の細道

 イマトラの滝。
 ヴァリンコスキの急流。
 イマトラでは早取《はやとり》写真のお婆さんに一枚うつしてもらう。待ってるうちに濡れたままの写真を濡れたままの手で突き出す。どうやら見ようによっては人らしくも見えるものがふたつ浮かび出ていて、あたい金五マルカ、邦貨約二十五銭也。
 ヴォクセニスカという村へ辿りつくと、この機を逃さず珍種日本人を見学せばやとあって、黒土《くろつち》道の両側に土着の人民が堵列《とれつ》している。逸早く私たちの来ることを知って、小学校の先生が学問の一部として生徒を引率して見せにきたに相違ない。いやに子供が多い。子供というより「餓鬼」といったほうがぴったり[#「ぴったり」に傍点]する。その餓鬼の大群集がぽかんと口をあけて、探険家然と赤革の外套なんかを着用している、二人とふたりの持物に飽かず見入っている。日本でも、よほどの田舎へ異人さんが行くと今でもこうだろうが、こうして自ら異人さんの立場に身を置いてみると、これはなかなか愉快な感情である。ちょっと「街上で発見された」名優の舌打ちに似ている。迷惑は迷惑だが、底に満足された虚栄心のよろこびといったようなものを拒み得ない。じっさい餓鬼は餓鬼を誘い、弟は兄を、姉は妹を、おふくろは父《とっ》つぁんを、婆さんは爺さまを、鶏は牛を、犬は馬を、みんながみんなを呼び出して来て、隣異と讃嘆をもって遠くから研究的に見物するんだから、こっちで私たちが、ふたりで何か話して笑っても、私が煙草に火をつけても、彼女が鼻へ白粉《おしろい》を叩いても、それがそっくりそのまま、何のことはない、まるで舞台の芝居になっていて、どうも弱ってしまう。そこで照れかくしに彼女がチョコレイトを出してそばの一幼児に寄贈したんだが、そうするとわれもわれもと四方八方から手――なかにはかなり大きな手も――が突出してきて、こうなるとチョコレイトの倉庫を控えていても間に合わない。隙《すき》を見て巡航船へ避難し、ほうぼうの態《てい》でヴォクセニスカをあとにサイマ湖へ出た。
 サイマ湖!
 AH! 私は悦《よろこ》んで告白する。いまだかつてこんな線の太い、そして神そのもののように、深く黙りこくっている自然の端座に接した記憶のないことを。神代《かみよ》のような静寂が天地を占めるなかに、黒いとろり[#「とろり」に傍点]とした水が何|哩《マイル》もつづいて、島か陸地か判然《はっきり》しない岸に、すくすくと立ち並ぶ杉の巨木、もう欧羅巴《ヨーロッパ》の文明は遠く南に去って、どこを見ても家や船はおろか、人の棲息を語る何ものもないのだ。
 サイマ湖!
 南方に行われてきたこましゃくれた[#「こましゃくれた」に傍点]「文明」とその歴史に関与せず、お前は一たいいつの世からフィンランドなる深林の奥に実在していたのだ? 重油のような湖面に島と木と空の投影が小ゆるぎもしないで、鳥も鳴かず、虫も飛ばず、魚も浮かばず、およそ生を示すもの、動きをあらわすものは一つとして耳を訪れず、眼にも触れない。何という潜勢力を蔵する太古の威厳であろう! なんたる吸引的な死潮の魅魔であろう! 何かしら新しい宗教の発祥地として運命づけられていなければならないこのサイマ湖! 末梢神経的な現今の都会文化はここへ来て木《こ》っ葉《ぱ》微塵だ。この恐怖すべき湖の沈黙、戦慄せざるを得ない紀元前の威圧、鬱然として木の葉も波もそよがない凝結、これらの前に立って誰
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