憶のないことを。神代《かみよ》のような静寂が天地を占めるなかに、黒いとろり[#「とろり」に傍点]とした水が何|哩《マイル》もつづいて、島か陸地か判然《はっきり》しない岸に、すくすくと立ち並ぶ杉の巨木、もう欧羅巴《ヨーロッパ》の文明は遠く南に去って、どこを見ても家や船はおろか、人の棲息を語る何ものもないのだ。
 サイマ湖!
 南方に行われてきたこましゃくれた[#「こましゃくれた」に傍点]「文明」とその歴史に関与せず、お前は一たいいつの世からフィンランドなる深林の奥に実在していたのだ? 重油のような湖面に島と木と空の投影が小ゆるぎもしないで、鳥も鳴かず、虫も飛ばず、魚も浮かばず、およそ生を示すもの、動きをあらわすものは一つとして耳を訪れず、眼にも触れない。何という潜勢力を蔵する太古の威厳であろう! なんたる吸引的な死潮の魅魔であろう! 何かしら新しい宗教の発祥地として運命づけられていなければならないこのサイマ湖! 末梢神経的な現今の都会文化はここへ来て木《こ》っ葉《ぱ》微塵だ。この恐怖すべき湖の沈黙、戦慄せざるを得ない紀元前の威圧、鬱然として木の葉も波もそよがない凝結、これらの前に立って誰
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