快な感情である。ちょっと「街上で発見された」名優の舌打ちに似ている。迷惑は迷惑だが、底に満足された虚栄心のよろこびといったようなものを拒み得ない。じっさい餓鬼は餓鬼を誘い、弟は兄を、姉は妹を、おふくろは父《とっ》つぁんを、婆さんは爺さまを、鶏は牛を、犬は馬を、みんながみんなを呼び出して来て、隣異と讃嘆をもって遠くから研究的に見物するんだから、こっちで私たちが、ふたりで何か話して笑っても、私が煙草に火をつけても、彼女が鼻へ白粉《おしろい》を叩いても、それがそっくりそのまま、何のことはない、まるで舞台の芝居になっていて、どうも弱ってしまう。そこで照れかくしに彼女がチョコレイトを出してそばの一幼児に寄贈したんだが、そうするとわれもわれもと四方八方から手――なかにはかなり大きな手も――が突出してきて、こうなるとチョコレイトの倉庫を控えていても間に合わない。隙《すき》を見て巡航船へ避難し、ほうぼうの態《てい》でヴォクセニスカをあとにサイマ湖へ出た。
サイマ湖!
AH! 私は悦《よろこ》んで告白する。いまだかつてこんな線の太い、そして神そのもののように、深く黙りこくっている自然の端座に接した記
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