の老人がひどく私に make−face のして行った。が、間もなく彼は、そこの角で制服の偉丈夫に掴まってぺこぺこ[#「ぺこぺこ」に傍点]おじぎしている。そんな物を運ぶには裏町を通れ――とでも叱られているものとみえる。制服の偉丈夫なら巡査にきまってるから――。
HAHHAG!
そうすると、空の色をうつして薄ぐらい街路を、真夏の秋風に吹かれて紙屑が走り、空のいろを映してうす暗い顔の北国人が右に左にすれちがい、往《ゆく》さ来るさの車馬と女の頬の農民的な赤さ――この丁抹《デンマーク》的雰囲気のまんなか、正面クリスチャン五世の騎馬像《ヘステン》に病人のような弱々しい陽脚《ひあし》がそそいで、その寒い影のなかで、花屋の老婆が奇体な無関心さで客の老婆に花束を渡している。
What is IT ?
What is THIS ?
What is THAT ?
つねにあまりに空を意識している街――それがこぺんはあげん[#「こぺんはあげん」に傍点]だ。
女の頬の赤さと青年の眼の碧《あお》さと。
農民的な叡智。
旅人はこの可愛い社会に親しみ得る。
絵のない絵本
夕方、当てもなく場末の通りを歩きまわったことがあった。ヘルゴランズ街《ガアド》をちょっと這入った横町に、古道具店――とより屑屋《くずや》といったほうが適確なレクトル・エケクランツの家がある。レクトル・エケクランツは猶大《ユダヤ》系のでんまあく人で、湿黒の髪と湿黒のひげ[#「ひげ」に傍点]と、水腫《みずぶく》れのした咽喉《のど》と、美しい娘とを持っていた。そして、彼の商店兼住宅は、およそ近代人とその生活に用途のない、想像し得る限りのすべての物品をもって文字どおり充満していた。クリスチャン五世の吸物《スウプ》皿も、公爵夫人の便器も大学生の肌着も、どこかの会堂から盗み出されたらしい緑いろの塗りの剥げた木製の燭台も、貧民窟からさえ払い下げになった底のとれた水差しも、兵卒の肩章も、石油こんろも、大椅子も、寝台掛けもみんな同じ強さの愛着でレクトル・エケクランツを惹くとみえて、そこでは、それらのすべてがめいめい過去の地位を自慢して大声に話しあっていた。そのわんわん[#「わんわん」に傍点]という声が暗い店の空間を占領して、四隅ではいつも魑魅魍魎《ちみもうりょう》が会議をひらいていた。が、この一見こんとん[#「こんとん」に傍点]として猥雑・病菌・不具・古蒼《こそう》の巣窟みたいなレクトル・エケクランツの店は、不思議とそれだけでひとつの調和を出していた。その効果は成功だった。レクトル・エケクランツ自身が猥雑・病菌・不具・古蒼を兼備して、彼の商品たる魑魅魍魎のひとりに化けすまし、おどろくべき安意《アト・ホウム》さでそれらを統率していたからだ。
じっさい、売物の黒円帽《くろまるぼう》をかぶって売物の煙管《きせる》をくわえたレクトル・エケクランツは|弾ね《スプリング》のない売物の大椅子に腰を下ろして――つまり売物のひとつになり切って、眼のまえの狭い往来を眺めくらしていることが多かった。私たちは何度となくここを往ったり来たりした。それは巾三尺ほどの延々たる露路で、何世紀にも決して日光のあたることはないらしかった。
だから、しじゅう濡れている敷石から馬尿のにおいが鼻をついて、大きな銀蠅《ぎんばえ》が歓声をあげて恋を営んでいた。日がな一にちレクトル・エケクランツの水っぽい瞳《め》が凝視している壁は、おもて通りに入口をもつ売春宿ホテル・ノルジスカの横ばらで、そこには雨と風と時間の汚点《しみ》が狂的な壁画を習作していた。
その晩私たちは、レクトル・エケクランツの店の赤っぽい電灯の灯《ほ》かげで一冊の書物を買った。何べん目かに前を通ったとき、仏蘭西《フランス》風の女用|上靴《うわぐつ》と一しょに端近《はしぢか》の床にころがっているのを発見したのだが、這入って、黙って手に取ってみると、私は妙に身体《からだ》じゅうがしいん[#「しいん」に傍点]と鳴りをしずめるのを感じた。それは西班牙《スペイン》語の細字で書かれた十二世紀の合唱集《アンテフォナリイ》だった。各頁とも花のような肉筆に埋《うず》まって、ふるい昔の誰かの驚嘆すべき努力が変色したいんく[#「いんく」に傍点]のあとに見られた。表紙は動物の皮らしかった。それに唐草《アラベスク》の模様があって、まわりに真鍮の鋲《びょう》が光っていた。ゴセック式の大きな釦金《クラスプ》がそのまま製本の役をつとめていた。
こういうと異常な掘り出し物のように聞えるけれど、ほんものかどうか私は知らない。その、踊っているような読みにくい字を西班牙《スペイン》語だといったのも、また、この本は十二世紀に出来たのだと請合ったのも、売った当人レクトル・エケクランツの鬚だらけな口ひ
前へ
次へ
全17ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング