とつだったからだ。だから、あるいは全然旅行者向きの作りものだったかも知れない。全く、十二世紀のスペインの合唱本がこのコペンハアゲンの裏まちに、しかも安く売りに出ているということはちょっと考えられない。が、私は贋《にせ》でも構わないのだ。ただこの古い――もしくは古いように見える――書物を、こぺんはあげんへルゴランズ街《ガアド》の露路の奥のレクトル・エケクランツの家《うち》で手に入れたという場面だけが私を満足させてくれる。ほかのことはどうでもいい But still, 私としては彼の言を信じていたい。なにしろ、赤黄いろい電灯のひかりのなかで、その照明にグロテスクに隈《くま》どられた顔とともに、水腫《みずば》れのした咽喉《のど》を振り立てながら、あのレクトル・エケクランツ老爺《おやじ》が、その品物の真なることを肯定して、こうつづけさまにうなずいたのだから――。
『AH! ウィ! ウィ・ウィ・ムシュウ――。』
 かれは奇怪な――たぶん十二世紀の――ふらんす語を話した。
 で、この十二世紀のすぺいん語の合唱本である。その真偽は第二として、私はこれがコペンハアゲンを生きて来たという一事を知っている。なぜなら、コペンハアゲンそのものが「こまかい花文字でべったり書かれて、唐草模様《アラベスク》の獣皮の表紙に真鍮の鋲を打ち、ゴセックふうの太い釦金《ぼたん》で綴じてある」一巻の美装史書だからだ。
 そして十二世紀! こぺんはあげんは十二世紀に根をおろした市街だ。もっともその後一度火事で大半焼けたけれど。
 けれど、私の概念において、この一書はたしかにコペンハアゲンの化身に相違ない。私たちはいつでもその頁を繰って、一枚ごとにまざまざ[#「まざまざ」に傍点]と北のアテネの風物と生活を読むことが出来るだろうから――それは私達にとって絵のない絵本なのだ。いまもこれをところどころくりひろげていこう。
 私のコペンハアゲンだ。
 ひらく。
 第一頁。
 |新しい王様の市場《コンゲンス・ニュウトルフ》。馬像《ヘステン》の主クリスチャン五世がつくった広場《プラザ》。そのむこう側のシャアロッテンボルグ宮殿は五世の后《きさき》シャアロット・アメリアの記念。現今は帝室美術館。
 第二頁。
 美術館に近い広場のはしに帝室劇場。代表的北欧ルネザンス建築。そこの大廊下にあるサラ・ベルナアルの扮したオフィリアの浮彫は世界的に有名だ。
 第三頁。
 クリスチャンボルグ宮殿。いまの国会議事堂。灰いろの石の威厳ある立体。
 ある頁。
 トルワルゼン美術館。
 ベルテル・トルワルゼンは北|欧羅巴《ヨーロッパ》の生んだ最大――すくなくとも量では――の彫刻家で、伊太利《イタリー》に遊び、その影響の多い作をたくさん残している。この美術館には彼の生涯の仕事のほとんど全部があつまっていて、大きな二階建の廊下から各室をうずめつくしている大小の彫刻がすべて彼ひとりの手に成ったものだというから、まずその工業的な生産力に驚かされる。その時代の流行によって希臘《ギリシャ》神話と聖書に取材したもの多く、中庭にはこの精力的多産家の墓があり、墓のうえに花壇がつくられ――何しろ往けども往けども静止する人体裸像の林で、出る頃には誰でもその神話中の一人物のようにひょうびょう[#「ひょうびょう」に傍点]としてしまうように出来ている。
 橋を渡ると名物の魚河岸だ。雑色的な人ごみ。空のいろを映して黒い川の水と、低い古い建物を背景に、それは幻怪きわまる言語と服装と女子供と海産物とが、じつに縦横に無秩序に交錯する「北海の活画」である。
 また或る頁。
 掘割りにそって曲りくねった、ボルスガアドのでこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]道を辿ることしばし、またクニッペルスボロの橋を過ぎれば、蕭々《しょしょう》・貧困・荒廃が何世紀かの渦をまく寒々しい裏町アナガアドの通りだ。
 ユニイクな建造物がある――|われらが救い主の教会《フォル・フレルセンス・キルク》。風変りな二八〇|呎《フィート》の高塔。一六一七年、時の名建築家ピンスボルグの建てたもので、塔の外側を奇妙な階段が螺旋状に巻いて頂上に達している。この螺旋段が、塔の内部でなしにそとについて、太陽をめがけて昇っている、つまり太陽を懼《おそ》れないものだ、じつに恐ろしいほど大それた設計である。各々方《おのおのがた》、左様では御座らぬか――というんで、当時の人たちが寄ってたかってさんざんピンスボルグをきめつけて異端者あつかいにしたので、可哀そうなピンスボルグはそれを苦に病んだ末、とうとうこの自分の建てた塔のてっぺんから地上へ身を投げて儚《はか》ない最期をとげたとのこと。いかにも十七世紀らしい話だ。そのピンスボルグの怨霊かどうかは知らないが、塔上の立像が、一八〇一年にネルソンの砲射を受けて片脚
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