かよく頭を下げようとしない近代のプロデガルがあろう!
サイマ湖!
ここで私は倫敦《ロンドン》の雑沓を想う。巴里《パリー》の灯、伯林《ベルリン》の街上をえがいてみる。
そうすると「約束されたる裁き」の済んだ世に、それらすべてを過去のものとして、これからまた新規の文明が伸びようとしているような感じがするのだ。事実私は、このときサイマ湖上の無韻《むいん》の音をその生長の行進曲と聞いたのだった。
白い闇黒が古代の湖水に落ちる。
一日一晩、船は神域のサイマ湖を航行した。
少数の土地の人が便乗しているきり、旅行者としての船客は私達だけだ。万事に特別の待遇を受ける。老船長とともに食事、半夜快談。彼は英仏独語をよくし、デレッタントな博学者である。独逸《ドイツ》における現勢力としての猶大《ユダヤ》人・ジョルジ・サンの性格・倫敦の物価と税・シンガポウルのがらくた[#「がらくた」に傍点]市場で買った時計の正確さ・ロココ式の家具・バルビゾンの秋――転々たる話題。老人は袋のようなサイマの水路を自分の掌《て》みたいに心得ていて、そしていつも船橋に立ってアナトウル・フランスを読んでいた。
カマラの村へ着くまで人家は一軒もない。カマラでは、私たちの船へ乗り込む青年を見送って、祖母らしい人が桟橋に凭《もた》れて泣いていた。
カマラからサヴォリナ。
スウラホネという、名も実も変てこなホテルに一泊。オラヴィンリナの古城を訪《と》う。一四七五年、最も露西亜《ロシア》へ近い防線の一つとして建造されたもの。水からすぐ生えたように高く湖面にそびえている。小舟で往復。雨、ときどき降る。
また別の船でサイマ湖を奥へ進む。
プンカハリュウ――木の繁ったせまい陸地が橋のように七キロ|米《メートル》もつづいて、対岸プンカサルミへ達している。代表的なフィンランドの湖水風景だ。私たちのほかは誰も下船しない。桟橋を出たところで泥だらけの馬車を掴まえて、ホテルまでやってもらう。坂と森林だけで、どっちを見てもみずうみがある。ホテルが一つ。町も何もない。
ホテル・フィンランデアという。客の来たことをまるで奇蹟のように家じゅう驚いていた。
このプンカハリュウでの鎮静的な五日間は私たちの生涯忘れ得ないところであろう。湖水に陽がかんかん照って、物音一つない世界だった。一日に二、三度、通り雨が森と水を掃《は》いて過ぎた。私たちは朝早く分水線《リッジ》を渡って、一日ボウトを漕《こ》いだ。どこへ行っても人っ子ひとり会わなかった。水は澄み切って底が見えていた。赤い水草の花が舟を撫でてかすかな音を立てた。その音にぞっ[#「ぞっ」に傍点]とさせられるほどのしずかさだった。手を出して取ろうとすると舟が傾いてどうしても届かなかった。それを無理に掴もうとすれば、ボウトは顛覆《てんぷく》したに相違ない。私は知っている。そうやって人を呑もうとするのが、湖水の精のあの花だったから――。
私たちはいつまでもプンカハリュウを愛するだろう。二日滞在というのを五日に延ばしたのだったが、それでも、立ち去る時、彼女は耐《たま》らなく残り惜しげだった。必ずもう一度行こういつか――私と彼女のあいだの、これは固い「指切り」である。
一たい芬蘭土《フィンランド》はほとんど外国語が通じない。ことにこう内地へ這入ると完全に絶望だ。プンカハリュウの五日間、私達も何から何まですっかり手真似で用を足した。おかげでこの「無言のエスペラント」は素晴らしい上達を見たくらいである。
その夜の汽車の窓はいい月夜だった。
すこしく英語を解する「村の弁護士」ヴァンテカイネン氏なる人物と同車する。ほとんど戦々兢々《せんせんきょうきょう》たる態度で私たちに望むから、どうしたのかと思っていると、やがて、出し抜けに、日露戦争に勝ってくれてまことに有難いという。それにはすっかり恐縮して、
『いやどう致しまして。』
と慇懃《いんぎん》に辞退したが聞き入れない。昔から虐《しいたげ》られて来た露西亜《ロシア》に勝った日本だ。その国の人が乗っていると聞いて、はるばる他の車室から、かわる交《がわ》る顔を見にくる。すっかり英雄扱いである。
『ムツヒト陛下さま、クロキ・ノギ・トウゴ――当時私たちは血の多い青年でした。あの興奮はまだ強く胸に残っています。』
じつによく日本と日本の固有名詞を知っている。日露戦争は私の五歳の時だから、私にとっては歴史と現実のさかい目にすぎない。しごくぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]としている。が、この際ぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]としてはいられないから、そのうちについ私も奉天旅順日本海とめちゃくちゃ[#「めちゃくちゃ」に傍点]に転戦して、何人となく「ろすけ」を生捕りにしたような顔をする。その顔を、ヴァンテカイネン氏と氏の同胞は穴
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