ろへ流れてゆく島・島・島の連続だけだ。
灯を吸って赤かったコペンハアゲンの空は間もなく消えた。エルシノアの砲台にぽっちり見えていた旗も、一せいに斜《ななめ》に倒れていた砂原の小松林も、段々に砕ける浪の線も、もう完全に過去へ歿した。ただ、しらじらとして残光を海ぜんたいに反映する空の下を、コング・ホウコン号の吐く煙りがながく揺曳《ようえい》して、水を裂いたあとが一本、雪道のようにはるかに光っている。
そして、島。
神出し、鬼没し、隠見する多島。
食後――ついでだが、北の食事は奇抜な儀式をもって開始される。まず、何らの心的用意なしに食堂へ這入るすべての外国人を驚愕させるに足るほど、一歩踏みこむや否、中央の卓子《テーブル》の周囲に行われているひとつの不可思議な光景が眼を打つのだ。それは、ありとあらゆる、およそ人間の脳力で考え得る限りの動植物――鉱物はないようだった――の 〔hors−d'oe&uvre〕 を幾種といわずテエブルの上に開陳してあるのを、めいめい皿とフォウクを手に、眼に異常な選択意識を輝かして勝手にとってきて食べるのである。こういうと何の造作もないようだが、これが実際に当ると仲々の訓練と勇気と進取の気象を要する。何しろ、食堂じゅうの人が立ってきて、われなにを飲み――もっとも飲み物はないが――何をくらわんかと、狭い場所で堂々めぐりをはじめるんだから、何となく本能をさらけ出すようで面映《おもはゆ》くもあるし、そうかと言って、厳粛に事務的であるためにはあまりに雑沓している。ここにおいてか、いぎりすのA氏は不器用な手つきで一|片《きれ》のトマトのために大の男――しかも紳士!――が汗をかき、あめりかのB氏は瞳をひらめかしてあれかこれかと徒《いたず》らに検査して歩き、C夫人は、この衆人環視のなかでいかにして最も上品に一匹の鰯《いわし》――すでに死去して缶詰にされてるやつ[#「やつ」に傍点]――をおのが皿の上に釣りあげるべきかとひそかに苦悩し、諾威《ノウルエー》産のD氏はそれらを尻目に逸早く自己の欲するものを発見し、捕獲し、この群集に揉《も》まれもまれて一日本婦人――彼女――は食卓へ近づけずに悲鳴をあげ、それを救助すべく良人《おっと》なる日本人がフォウクを武器に持前の軍国主義《ミリタリズム》を発揮して人の足を踏み、そういううちにも青菜《レタス》は刻々に減り、腸詰は見るみる姿をひそめ、人はふえる一ぽう――と言ったように、はじめての人は誰でも度胆《どぎも》を抜かれる。そしてその間、幾多の悲喜劇を生じて、この結末果してどうなることか? と手に汗を振っていると、そこはよくしたもので、この人さわがせなオウドウヴルが全滅すると同時に、各人安心して騒動もしずまり、秩序は回復し、それからのちはけろり[#「けろり」に傍点]としてここに初めて他のどこの文明国とも同じ食卓の順序が運行されるのだが、これも慣れてみるとなかなか趣きのあるもので、私の思うところでは、この習慣は、海賊《ヴァイキング》時代にぶんどり品を立食《たちぐい》して大いに盗気を鼓舞した頃からの伝統に相違ない。しかし、食前にあれだけの蛮勇をふるうんだから、自然運動にもなって近代人にはことに適しているだろう。北のほうのオウドウヴルは一ばんにこのやり方だから、気取って内気に構えていたり、平和論者として冷静に客観していたりすると、これを相当さきに食べさせる気であとは比較的簡単なため、あわれ翌朝まで空腹を押さえる運命に立ちいたらなければならない。
ただ一言、鰯に似た塩づけの魚で、ブレスリンという怪物がある。一試の価値あり。美味。その他得体の知れないものには注意を要す。モットウとして、経験ある隣人の皿を白眼《にら》んでそれにならうこと。
で、食後。
甲板。
白い夜にキャンヴァス張りの寝椅子を並べて、おそくまで語る。彼女と私と、狩りに行くいぎりすの老貴族とベルゲンの女富豪と、あめりかの観光客と埃及《エジプト》人の医学生と。
彼らの持ち寄る、世界のあらゆる隠れた隅々の物語に、星がまたたき、潮ざいが船をつつみ、時鐘が鳴りわたって、ときのうつるのを忘れる。
翌日。
ちょっと諾威《ノウルエー》のホルテン港へ寄る。海軍根拠地のあるところだ。飛行機がマストとすれずれに船をかすめる。ひくい丘の中腹にお菓子のような色彩的な家の散在。無線電信の棒に大きな鳥が何羽も群れとんでいる。
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ミュレル・トュルベンテ!
ミュレル・トュルベンテ!
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声がする。はだしの子供たちが船の下の桟橋で何か呼び売りしているのだ。
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みゅれる・とゅるべんて!
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一種の桜んぼである。ミュレルがさくらんぼなのか、それともトュルベンテがそれなの
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