雨に打たれて森のなかをうろついたわけだが、何でも記録によると、一五八六年に、英吉利から渡海して来て時の丁抹王フレデリック二世の御前で芝居をした一座のなかに、ひとりの若い役者がいて、ここでかれが三百年前の古い物語を聞いて書いたのがハムレットの一篇、つまりその年少の俳優こそ沙翁だったという。いったい丁抹といぎりすは、昔からその皇族の血族関係なんかもずいぶん入りくんでいて、近い話が、前丁抹皇帝クリスチャン九世に三人の内親王があったが、この姉妹の三王女のうち、ひとりだけ生国にとどまってデンマアクのクィイン・ルイズとなり、他は後日英吉利のクィイン・アレキサンドラ、もう一人は露西亜《ロシア》のダグマア女皇陛下と呼ばれるようになった。そして、デンマアクのクィイン・ルイズもいぎりすのクィイン・アレキサンドラも既に世を去ってしまったが、ロシアのダグマア―― Empress Dagma ――のみはまだ存命している。露西亜名をマリア・フェタロヴナといって今年八十二歳。この人こそは、先年のロシヤ革命に、その頃まだエカテリンブルグといったいまのスウェルドロフスクで、共産軍の血祭りにあげられたロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の生母である。
エルシノアからの帰途、自動車は「北欧リヴィラ」の名ある坦々たる海岸の道を走るんだが、スネッケルステンからニヴァ、ラングステッドからスコッズボルグと宿場を縫ってドライブしてくると、間もなくクラッペンボルグという小さな村へさしかかる。そうしたら気をつけて、右の傾斜面に建っている一軒の灰色の住宅を見逃さないことだ。立木に取りまかれているが、そのすきまから悲しい窓が覗いて、私の通ったときはすっかりレイスのカアテンが垂れ、人の気はいもなかった。
これがダグマア前露女皇、いまのマリア・フェタロヴナの家で、忠臣のコザックたちに守られて晩年を送っているんだが、まぎらすことの出来ない息子や孫たちの悲惨な死が老いたたましいを覆して、彼女はすこし精神に異常をきたしているという。ハムレットよりもっと深刻な人生と国家興亡の悲劇であると私は思った。
私達は西比利亜《シベリア》をとおってスウェルドロフスクを知っている。私の紀行にはこうある。
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もとのエカテリンブルグだ。ニコライ二世はじめロマノフ一家が殺された町である。宝石アレキサンドリアを売っている。皇帝の泪《なみだ》が凝り固まっているようで、淋しい石だ。ウラルの風。――と。
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いまこうしてクラッペンボルグのマリア・フェタロヴナの家のまえに立っていると、「運命の老女」が朝夕あそこの窓から見るであろう浪と村と人々の生活――その小さな世の中には何の移りかわりはなくても、何かしらそこに、マリア・フェタロヴナを一生のかなしみから脱却させ、諦めさせ、慰めるものがなければならないような気がする。
私はあたりを見まわした。
低い押戸の門の下に、やはり雑草が雨に叩かれているだけ――海峡の風。
邸内に咲いていた野生の花。
きつねのちょうちん。
たんぽぽ。
くろうば。
日本の春の花だ。
買い出しにでも行ったとみえて、女中らしい若い女がひとり、大きな紙包を抱えて私の横からさっさ[#「さっさ」に傍点]と裏門のほうへ廻って行った。黒い木綿の靴にべったりはね[#「はね」に傍点]が上っていた。
雨後・坂道・寒空
もっと北へのぼろう――ノルウェイへ。
そこで、薄暮。
うら淋しいクヴァスタスブルンの波止場からS・S王《コング》ホウコン号へ乗りこむ。
船客。
あめりか人の漫遊客夫婦二組。遠く北の内地へ狩猟にいくという英吉利《イギリス》の老貴族とその従者。諾威《ノウルエー》へ帰る兄弟の実業家――これはエクボという不思議な名を持っている。――ふらんす語に「磨《みが》きをかける」ために巴里《パリー》へ行ってきたベルゲンの富豪のお婆さん。ブダペストから来た埃及《エジプト》人の医学生。亜米利加《アメリカ》ネブラスカ州から小さな錦を飾っていま故郷の土を踏もうとしている移民の一家族。猶太《ユダヤ》人、陸軍士官、この辺を打って廻る歌劇団、金ぴかの指輪だらけの手で安煙草をふかしつづけるその一行のプリ・マドンナ。彼女の鼻のそばかす。家畜のような北欧の男と女と子供の大軍。貧しい荷物の山。
カデガッド海。
たちまち、霧に濡れて食慾的に新鮮な小群島《アウチペラゴ》で私たちのまわりに。
北へ北へと機関が唸って鴎《かもめ》が追う。これからオスロまで海上一昼夜の旅。やがて諾威《ノウルエー》クリスチャニアのフィヨルドが私たちを迎えるだろう。
が、いまはこの白夜の暗黒を点綴して、船にちかくあるいは遠く、わだかまり、伸び上り、寝そべり、ささやき合い、忍び笑いし、争ってうし
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