スめ彼は場所に困って寺院を借りようとしたところが、僧侶が彼を異端者あつかいして、貸す貸さないで一悶着《ひともんちゃく》あったというのでも知れよう。代表作。パトロクラスを争う。天国に対する地獄の叛逆。悪魔の鏡。死刑囚の幻想。地獄におけるナポレオン。秘密。薔薇。その他。隅の犬小屋と犬の絵も有名だ。つい先ごろまで幕のむこうに隠しておいてわずかに小穴から覗かせたという作も、いまは全部公開している。飢餓・発狂・犯罪と題する、狂女が赤んぼの足を切って鍋へ入れているところ、など・など・などがそれだ。「期待」は、裸女が寝室のとばりをあけて人を待っている図、「好奇心」では、これもやはり裸体の女が浴室らしい部屋の戸を細目にひらいている。孤児、生葬、カシモド、焼けどした子供――等すべて世紀末的なグロテスクネスの極致だと言える。ヴェルツはよく狂人だったと誤りつたえられているが、それほどの血みどろさ、ゆがんだ見方、変態さだ。しかし、成功か不成功か、とにかく彼は絵筆にものを言わせようとしている。ひとつの理想主義、革命的社会思想、階級意識、戦争と力への反撥――そういったものを取材《テイマ》とする絵が芸術であっていいかどうかは第二の問題として――かれの絵は最も端的にそれを摘出し、議論し、口角泡をとばして、画室へ這入るとけんけんがくがく[#「けんけんがくがく」に傍点]の声が四方の壁に沸き立っているような気がする。使命をもつ絵――ひっきょうヴェルツは十九世紀の漫画《カリケチュア》だった。が、この狂天才もたしかに人類生活の一|飛石《ひせき》たるを失わない。いかにそれが気味のわるい飛石にしろ!――こういうとヴェルツは、その「自画像」に記して時人《じじん》に示した著名な文句を、そのまま繰り返すに相違ない。
「一たい絵画において批評ということは可能かね?」
In matter of painting, is criticism possible ?
白耳義《ベルギー》博物館――化石、前世界のとかげ[#「とかげ」に傍点]の大群。一訪にあたいす。
大広場《グラン・プラアス》――夜あけから八時まで、朝露と大きな日傘と花のマアケットだ。ようろっぱで最も美しい中世紀|広場《スクエア》のひとつ。大きな犬が馬のかわりに牛乳や野菜の車をひいて、でこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]の石だたみのまわりを豊かな装飾の建物がとりまいている。その一つ「ギルド・ハウス」の二六・二七番に、一八五二年にヴィクタア・ユウゴウが住んでいたことがある。
サンカンテネイル公園の芝生と池、宮殿のうえの並木街――ブラッセルの美は街路樹と街路樹の影にある――私たちは一日に何度となくその下を往ったり来たりした。ぱらぱらと小雨がおちる。木かげのベンチに腰をおろす。霽《は》れるとまた歩き出す。一ぽん路を下町へおりると南の停車場だった。
お祭りで、片側にずうっと見世物小屋が並んでいた。
靴をとられそうに砂のふかい歩道にそって、力持、怪動物、毛だらけの女、めりい・ごう・らうんど、人体内器のつくり物、覗き眼鏡、手相判断、拳闘仕合、尻ふりダンス「モンマルトルの一夜」、蛙男《かわずおとこ》、早取《はやとり》写真、「女入るべからず」、みにあちゅあ自動車競争、ジプシイ占いブランシェ嬢の「|水晶のお告げ《クリスタル・ゲイジング》」、生理医学男女人形、影絵の肖像画、ふたたび「巴里の夜」、大蛇、一寸法師、あふりか産食人種、飛入り歓迎「モンテ・カアロ」の勝負、当て物、キュウピイ倒し、だんす[#「だんす」に傍点]する馬、電気賭博に海底旅行――楽隊・雑沓・灯火・異臭・呼声・温気。肩、肩、肩。上気した人の眼、眼、眼。何しろ今夜は町の祭りだ。
一|法《フラン》から三法出して、私たちもその見世物の全部を軒なみに覗いてあるく。「顔じゅうに毛の生えている女」のまえで、私がセ・ビアン! トレ・ビアンと大声を発したら、見物の善男善女|頬《ほお》をかがやかしてトレ・ビアン! と和唱し私語《ささや》きあった。正直で単純で熱情的な、羅典《ラテン》とフレミシュの混血族である。彼らはしんから感嘆しているのだ。ただ一つ「蛙男《かわずおとこ》」にはへん[#「へん」に傍点]に吐きたくさせられた。これはほん物の不具者で、身長一尺未満――年齢五十歳前後――のからだに分別くさい巨大な顔が載《の》っかって、しかも極端にほそい小さな両手には、水掻きのようなものがついている。それが、何らの興味もなさそうにしずかに仏蘭西《フランス》語の俗歌をうたっていた。それは私も彼女も、当分食慾に支障をきたしたほどの眺めだった。
アイスクリームを買いながらタキシを呼びとめ、そのタキシのなかでアイスクリームを食べつつ帰途につく。うしろからはまだ、祭りの雑音が夜風とともにタキシを追ってきていた。
星あかりだ。
あしたの天気は楽観していい。
嘆きの原
|尼院の森《ボア・ドュ・ラ・コム》、ソワアニの森――このソワアニはブラッセルの「ボア・ドュ・ブウロウニュ」だ――とにかく、みどりの反映で自動車内が、乗っている私も彼女も真っ青に見えるほど、いつまでもいつまでも森のなかばかり走ってる。森だからやたらに大木が生えて、その古い大木がまた出鱈目に枝を張って、枝の交錯から午後の陽が洩れて、土と朽葉《くちば》のにおいがつめたく鼻をついて、湖があったり、薪《まき》をしょった女が小路に自動車をよけていたり――そのうちに森を出たと思ったら、いきなり宿場みたいな埃《ほこり》くさい町の真ん中へ停めて、運転手の赤ら顔が私たちを振りかえった。
『あれです! 一八一五年六月十七、十八の両日、ウェリントン将軍の参謀本部となった家《うち》は。いまは村の郵便局ですがね。』
私たちはウォタアルウ古戦場へ行く途中だった。いや、もうここがウォタアルウの町だという。見ると、いかさま「すっかり当時を心得て」いそうな建物が、ふるくて汚いくせに妙に威張って建っている。ここにおいてか私は、
『ははあ、そうかね。大したもんだね。』
と一つ、亜米利加《アメリカ》人の観光客みたいに曖昧に感心しておいて、彼女を促し、ショファを引具《ひきぐ》してちょっとそのウェリントン大公の参謀本部を訪問する。
二階が本部兼居間兼寝室だ。「すっかり当時を心得て」いそうなお婆さん――この家《や》の主婦兼ウォタアルウ郵便局長――が出て来て、
『これが将軍の使った椅子と机。』
『ははあ、大したもんですな。』
『これが将軍の寝台。』
『へえい! 大したもんですな。』
『これが将軍の――これが将軍の――これが将軍の――。』
弾丸だの槍だのぼろぼろ[#「ぼろぼろ」に傍点]の肩章だの――もちろんすべて将軍の――を一まわり見て戸外《そと》へ出る。
『これが将軍の踏んだ階段だね。』
私がこういって木の梯子《はしご》段をこつこつ蹴ったら、運転手は眉を上げて保証した。
『もちろん、そうです。』
じぶんのものみたいだ。この運転手はブラッセルの町で拾ったのだが、若いにしてはじつによく「当時を心得」ていて、把輪《ホイイル》を握りながら、散策中の鶏や犬や、時には村人をあわや[#「あわや」に傍点]轢《ひ》きそうになるのもかまわず、はんぶんうしろを向いて盛んに饒舌《しゃべ》り散らす。
『ええ、十七日の十一時ごろから明け方へかけて土砂ぶり、ナポレオンの兵隊は足拵《あしごしら》えがよくなかった――おまけに大きな溝がありましてね。いまそこへ行きますが。』
そこへ行こうとして曲り角へ出る。オテル・ドュ・コロウヌと看板を上げた村の倶楽部《くらぶ》みたいなささやか[#「ささやか」に傍点]な居酒屋がある。
『一八六一年、ユーゴウはこの家に滞在して、あの「|ああ無情《レ・ミゼラブル》」のなかのウォタアルウのところを書いたんです。やっぱり実感を得に来たんでしょうなあ。』
ここでも運転手は自分が書いたような顔をする。ぞろぞろ下りて這入りこむ。
『ユーゴウのいた部屋を見たい。』
『ビイルか葡萄酒《ぶどうしゅ》かレモナアドか、何を飲む?』
バアのむこうに控えてる女は一こうに要領を得ない。その要領を得ないところを掴まえていろいろに詰問すると、まことユーゴウのいたことは事実に相違ないが、もう代が変ってすっかり判らなくなっているという。この問答を聞いて、むこうで村の坊さんがひとりでにやにや[#「にやにや」に傍点]笑ってる。仕方がないから運転手君と三人でレモナアドの大杯を傾ける。今こいつに酒精《アルコール》分を許しては大へんだからだ。
それからまた田舎みち。モン聖《サント》ジャンの野原。ここがほんとの戦場だ。陽がかんかん[#「かんかん」に傍点]照って「土のピラミッド」が立ってる。下に「当時のパノラマ」の見世物がある。這入ってうっかりしてるとのこのこ[#「のこのこ」に傍点]案内者がついてきて勝手にまくし立てる。
『この時ナポレオンは兵七万一千九百四十七を擁し、あれなる白い百姓家プランシノアに陣取りまして午前九時、あい変らずこう左手をうしろに廻して白馬に跨《また》がり――それに対し聯合軍は、こちらのブラン・ラルウの街道を押さえ――。』
見たようなことを言ってる。
『ははあ、どうも大したもんだな。』
『大変でしたろうねえ、ほんとに。』
ほどよく感心してビラミッドへ登ると、頂上に獅子像が頑張っていて、いま見たパノラマの現場は指呼《しこ》のうちだ。
天地悠久と雲が流れて、白耳義《ベルギー》の野づらはうらうら[#「うらうら」に傍点]と燃えている。ここにも「すっかり当時を心得」たのが網を張っていて、
『あれ! あすこに見えまする一本の木――|奥さん《マダム》、見えますか?――あれがナポレオン軍苦戦のあと。それから、むこうにぽっちり[#「ぽっちり」に傍点]窓の光っております一軒家は――。』
『ははあ、どうも大したもんだな。』
『大へんでしたろうね、ほんとに。』
下りてみると、日向《ひなた》の自動車のなかで運転手がぐっすり居眠りしていた。とうとうこっそり[#「こっそり」に傍点]呑《や》ったとみえて、車内にぷうんと香《にお》いが漂っている。これで鶏も犬も人も轢《ひ》かずに、ソワアニュの森では大木をよけて、無事にブラッセルまで帰れるかしら?
なあに、いくら酔ってても、じぶんの車だけは大事にするだろう。
ウォタアルウ古戦場で、私は計らずも一句うかんだ。ものになってるかどうか、お笑いにまで――。
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夏草やつはものどもの夢のあと
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オリンピック1928
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日光・群集・筋肉・国旗。
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開会式。曇天。寒風。
近代的古代|希臘《ギリシャ》之図。
放鳩。奏楽。
各国選手入場――ABC順。
亜弗利加《アフリカ》。みどりの上着に白のずぼん。
独逸《アルマニュ》。上、濃紺。下、白。
ブルガリアは騎兵だ。
加奈陀《カナダ》。上、白。下、赤。
智利《チェリー》は白。
埃及《エジプト》。赤い帽子。青いコウト。灰色のぱんつ。
亜米利加《アメリカ》。上、青。下、白。
旗手ワイズミュラア。
ハイチ。黒人、一人。
伊太利《イタリー》。こうと灰色。うすい青のずぼん。
日本。上、青。下、白。役員はフロックコウトに赤靴だ。
旗手|高石《たかいし》。
墨西哥《メキシコ》。白に赤襟。
モナコ。白衣にあかい帽子。九人。
パナマ。ひとり。
参加国全四十五。
宣誓。演説。
演説。演説。演説。
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日光・群集・筋肉・国旗。
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百|米《メートル》。二百メートル。
四百米。タイム五六秒五分の一、五分の三。
ピストルとストップ・ウォッチ。
続出する新記録。
世界レコウド。
また世界レコウド。
国家として切るテイプの清新さ。
オフィシェル・プログラマ? の叫び声。
高飛び。槍投げ。
予選。準決勝、そして決勝。
メインマストの国旗。全スタンド起立。
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