にいちばんいいのは新鮮な冷たい空気です。自由に窓をおあけ下さい。
本社の大陸定期飛行機には、すべて後部にWCがついております。そしてどんなに皆さんが動きまわっても、そのため機が平衡《バランス》をうしなうようなことは断じてありません。
飲料水はちょっとボウイへ。ウィスキイ・ワインその他の酒類飲み物も積んでおります。
喫煙はもちろん、いかなる目的にもせよ機内で燐寸《マッチ》をすることは政府の規則により固くおことわり申します。
何によらず、飛行機の窓からけっしてものを棄てないように願います。
もしその必要があれば、乗客はキャビン正面の口孔《アパアチュア》をとおして飛行士と会話することが出来ます。
あなたの飛行士は過般の大戦の勇士、千風万雲の古つわものであります。そして飛行中、彼はつねに無線電話で目的地と通信を交換し、天候気流その他に関して絶えず豊富な報道を供給され、いかなる状況にもその用意がととのい、事実T・A社はいま全員全力をあげてあなたの安全を守護しているのです。
海峡横断のさい万一《エマアジェンシイ》のために――ちょうど汽船とおなじに――救命帯がそなえつけてあります。」
[#ここで字下げ終わり]
とそれから図解で救命帯の着用方《きかた》を詳説し、なお、
[#ここから1字下げ]
「キャビンの天井に非常口があります。いざ[#「いざ」に傍点]という時は下がっている輪を強く引き、出口を破り開けて下さい。
エンジンの音が止まりそうに低くなっても、決してびっくりすることはありません。それは着陸の準備か、あるいは単にあなたの飛行士が彼の判断において、速力をよわめるかまたはもっと低く飛んだほうがいいと考えて、そう実行しているまでのことですから――御安心下さい。」
[#ここで字下げ終わり]
もう一まい紙がはいっている。それには「銀翼号《シルヴァ・ウイング》に関する事実《サム・ファクツ》の一部」とあって、
[#ここから1字下げ]
「本機「銀のつばさ」は、アラン・カブハム卿が倫敦《ロンドン》ケイプ・タウン間、ならびに英濠往復飛行に使用して大成功をおさめたるアウムストロング・シドレイ式三八五・四二五馬力冷空ジャガア・エンジン三個により推進《プロペル》さる。
正エンジンは操縦席《カク・ピット》の前面、機の鼻さきに位し、他の二つの補機関は両翼の中間にあり。
本機は特に長時間飛行のため建造《つく》られ、キャビンの通風|煖※[#「火+房」、210−14]《だんぼう》照明等すべて最も近代的デザインになる。
中央エンジンの後部は防火壁にして、石油は上翼下二個のタンク内に貯蔵さる。
本機の最大速力は一時間百|哩《マイル》以上。
満載時の重量は約七|噸《トン》半なり。」
[#ここで字下げ終わり]
こう一気に読みおわった私は、あわてて綿を千切《ちぎ》って耳へ詰めながら見まわすと、なるほどみんな耳の穴を白くふさいでいる。
BUMP!
と、風をついて滑走《タクシ》していた機が――じっさいいつからともなく――ふわりと宙乗りをはじめたらしい。いままで機窓の直ぐそとにあった地面がどんどん下へ沈みつつある。
天文とジュラルミンと大胆細心と石油の共同作業は、ここに開始された。
飛び出したのだ。
Off she goes ―― The Silver Wing !
OH! Glory ! 何という刹那的な煽情《センセイション》! 刺激・陶酔・優超感・魘《うな》されるこころ――このGRRRRと、そしてBUMP!
生きながらの昇天だ。人と鞄と旅行免状とランチ包《づつみ》とボウイさんとの。
はっはっはっは!
ほう・ほう・ほ!
声は掻《か》き消されて聞えないが、乗客は誰もかれも大きな口をあけて笑っている。皆げらげら[#「げらげら」に傍点]笑ってる。何だか無性におかしいのだ。きょうから新しい生命《いのち》を貰って、全くべつの動物になった気がする。それが可笑《おか》しくておかしくてたまらない。赤んぼのような根拠のないうれしさだ。
私も笑う。うんと、うんと、笑ってやれ。
で、あははははは!
HO・HO・HO!
が、機が飛行場《エロドロウム》を驀出《ばくしゅつ》して、すぐそばのアパアトメントの中層とすれすれに飛び、あけはなした窓をとおして一家庭の寝台、絨毯、机、そのうえの本、ちょうど戸《ドア》を押して這入ってきた女、それらが大きく大きく――実際よりずっ[#「ずっ」に傍点]と大きく――あざやかに閃過《フラッシ》したとき、私はふっと悪魔になった気がした。
そうだ。けさテムズの岸で馬にからかっていた蠅。私はいまあの一匹に化けているのだ。
だからぶうん[#「ぶうん」に傍点]とこの窓枠へ飛び下りて、それから机、書物と順々にとまって、そこで首をかしげて両手をこすろう――。
悪魔だ。
BUMP! そして Rolling。
機は「無」のなかを一路駈け上っている。太陽をめざし、神を望んで。
〔Bapte^me de L'Air !〕
大きな赤い屋根、頭からすぐ脚の生えている人間たち、一枚二枚と数えられる自動車――どうしてこの町はこう平べったいんだろう?
や! 丸い穴、四角い穴、何だ、煙突だ。やあ、テニスしてらあ! 馬鹿だなあ、よして上を見てらあ。顔が靴をはいてるぞ! やあい、手なんか翳《かざ》すない!
きちょうめんに長方形なテニス・コウトとその附近がむらさき色に澱《よど》んで見える。飛行機の影が落ちているのだ。
BUMP!
すでに高度は千|米《メートル》以上。百|米《メートル》の速力。これから千乃至五千の高さを揺曳《ようえい》して飛ぶ。一分間に汽車の窓から見る視野の二十倍が一秒のあいだに私たちのまえ――いや、下にあるわけで、機の真下の一地点だけでも、まさに六|哩《マイル》平方にあたる勘定だ。
もう疾《と》うにクロイドンを飛び出したのだろう。人家がまばらになって、バリカンのあとみたいな耕地がGrrrrと斜めにゆるくうしろへ流れつつある。
空の濁っているのが倫敦《ロンドン》の方角らしい。
機首はきまった――一直線に巴里《パリー》ブウルジェへ!
こうなると私たちには何らの恐怖も危惧もない。あるのはただこみ上げてくる愉悦と単純な驚異の連続だけだ。
洋々たる「空の怒濤」。
おとこの雲。
おんなの雲。
こどもの雲。
みんな仲よく私たちのまわりに遊んでる。さわいでる。笑ってる。
笑うと言えば、いままで他愛なく笑っていた機内の人々は、急にじぶん達の笑いに気がついて、その笑ったことが恥しいように、あわてて「人間界」の威儀をつくり出した。そこで狂奔する音響のなかで、私のうしろのお婆さんは毎日郵報《デエリイ・メイル》を拡げ出し、商人らしい中年の紳士は小鞄をあけて書類を読みはじめ、女学生は林檎《りんご》を剥《む》き、女の児は窓へつかまり、その母親は背後から女の児をつかまえ、もうひとりの若い男はよろけながらWCへ立ち、ボウイが飲み物を売りにくる――いかにも旅行の一頁らしい光景。
彼女が私へノウトを渡す。筆談だ。書いてある。
『イカガ?』
私が返事をかく。
『ヘイキ。』
彼女がほほえむ。私もほほえむ。それからまた、むさぼるように二人は下界の観察だ。
プロペラの音、その風、自信に満ちみちて大きくうなずく銀いろの翼、私の窓のそとに泣くようにふるえている、一本の寒い綱《ロウプ》。
地球はいま私たちに関係なく廻っている。
何たるそれはのろ[#「のろ」に傍点]くさい文明であろう! じつに笑うに耐えた平面・矮小・狭隘《きょうあい》・滑稽そのものの社会であり、歴史であり、思想であり、「人生の悲劇または喜劇」であろう! なんというパセテックなにんげん[#「にんげん」に傍点]日々の希望であり、Patho であり、微笑であることよ!
上から見る生活の白じらしいはかなさ――鳥はすべて虚無主義者に相違ないと私は思う。
機内はあかるい。天井に薄い布を張った菱形の非常口があるからだ。|裂く羽目《リッピング・パネル》である。Ripping Panel ―― in case of emergency, pull ring sharply. こう読める。忘れていた気味のわるい思いがふっ[#「ふっ」に傍点]とまた頭を出しかける。No Smoking とも大書してある。Not Even Abdullas とすぐあとに断ってある。アブドュラは軽いから煙草じゃないなんて言う人もあるとみえる。ちょっと引っぱれば取れるように、頭のうえに救命帯が細い糸一ぽんで吊してある。これを見ていてあんまり気もちのいいものじゃない。Life−Belt, Pull Only in Emergency ――。
私は思い出す。つい一週間ほどまえ、なんとかスタインという倫敦《ロンドン》財界の大頭《おおあたま》――すでに何とかスタインである以上、それはつねに財界の黒幕にきまっている――が、海峡のうえで飛行機から落ちて、新聞と取引所をはじめロンドンぜんたいが大さわぎをしていたことを。そして、その死体がきのう海岸で発見されて、先刻クロイドン飛行場《エロドロウム》にそういう掲示が出ていたことを。一昨日はまた、これは旅客機ではないが、このT・Aの飛行機がBUMPと落ちて、ちょっと Joy−ride としゃれていた会社の女タイピストと事務員の一行を飛行家とともに全部恨みっこなしに殺している。じつはこれらの事実は、私が考えまい考えまいと努力していたところのものだが、「|裂く羽目《リッピング・パネル》」だの救命帯だのをじっ[#「じっ」に傍点]と見つめていると、私はいつしか、いまこの天空のうえで故障が起って――操縦者《パイロット》の心臓麻痺・突然の発狂ということもあり得る――客一同は総立ちになり、誰かが躍り上ってリッピング・パネルを破り、彼女は私にしがみ[#「しがみ」に傍点]つき、女たちは泣き叫び、男はただうろうろ[#「うろうろ」に傍点]し――そのあいだも、一団の火煙と化した機は螺旋《らせん》をえがいて落下しつつある! としたらどうだ! などと、内心安全を確信していればこそ、とかくこんな場面も空想にのぼるんだろうが、いままでの空の犠牲者――早い話が何とかスタインにしろT・Aのタイピストにしろ――は、誰でもこの、ぼんやりながら根強い、自分だけは大丈夫にきまっているという内心の確信にまかせて機上の人となったに相違ない。
そう思うと、何とも飛んだことをしたような気がしてくる――ものの、この快翔に一たい何が起り得るというのだ?
ああ、悪魔だった。そも悪魔に、落ちたり死んだりすることが考えられようか。悪魔! 悪魔! 赤いももひきに赤いまんと[#「まんと」に傍点]、蝸牛《かたつむり》の頭巾に小意気《こいき》な鬚のメフィストフェレスは、いま銀のつばさを一ぱいに張ってこの大ぞらを飛行している。悠々とそして閑々と、法規と礼譲と道徳とあらゆる小善とを勇敢に無視して、そのうえを往く「空の無頼漢《アパッシュ》」だ。何という近代的に無責任なCHIC!
BUMP! そしてRolling。
窓から手を出す。指が切れて飛びそうだ。つめたいのか痛いのかちょっと感覚の判断に迷う。
ボウイが正面壁間《ブルワアク》の黒板へ何か書き出す。みなの眼が白墨へあつまる。NOW OVER と上にぺんき[#「ぺんき」に傍点]で出ていて、ボウイのチョウクがあとをつけ足す。
NOW OVER Sevenoak.
セヴノウクの町だ。
ははあ、固まってる。うすっぺらの家が、後園《バック・ガアデン》が、洗濯物が、木が路が人が。
鶏? それとも犬かしら? 白い広場に何かぽつんと黒点が見える。ゆらゆら[#「ゆらゆら」に傍点]とセヴノウクがうしろへすっ飛んだ。
畑だ。
森だ。
野だ。
畑は赤・黄・白の幾何的だんだら。森は黒い集団。野は雲の投影。
機は早い。
NOW OVER Tombridge.
おや! 帯が落ちてる。何だ、国道《ハ
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