d luxe なだけだ。が、エア・ハウスというのは空中旅客の市内集散所で、もちろんじっさいの「|空の港《エア・ポウト》」はロンドン郊外サレイ州のクロイドンにある。客はT・A社の自動車に乗せられて十一時に市の空中館を出るんだが、その十五分まえ、すなわち十時四十五分には必ず出頭するようにと前日社から電話でお達しのあったのは、つまり出発まえにこれだけの手つづきを済ます余裕を見ておくためだった。
Imperial Airways, Ltd ―― LONDON to PARIS
時間表――二十四時制
日曜以外 毎日 クロイドン発
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A 七時四十五分
B 十六時三十分
C 十二時
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飛行時間 二時間半から四時間
乗機賃、発着飛行場と市内空中館間の自動車賃を含む。
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A は四|磅《ポンド》十四|志《シリング》六|片《ペンス》
B は五磅五志
C は五磅十五志六片
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で、ABCと出発の時間が違い、各機の大小、新旧、速力、設備、二エンジンか三エンジンかによって運賃にも保険的性質の差異をきたすわけ。つまりこれが等別で、Cが一等、Bが二等、A等は三等にあたる。私たちは万善を期してCをえらんだことはいうまでもない。
手荷物規則
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ひとりにつき三十|封度《ポンド》まで無代
三十|封度《ポンド》以上は、一封度に三|片《ペンス》のわりで申し受けます。
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ちなみに私たちは、大型スウツケイス二個、帽子箱一個、グリップ一個、小鞄二個、ホウルド・オウル一個、ケインサック一個、シネ・コダック及《および》附属品一個、これだけ持ち込んで超過二|磅《ポンド》五|志《シリング》九|片《ペンス》を払った。
倫敦《ロンドン》から巴里《パリー》へは、おなじクロイドン飛行場《エロドロウム》からやはり一日三回ふらんすのエア・ユニオンの機が飛ぶから、都合六回の離陸があるわけだが、夏はそのすべてが満員で、すくなくとも二、三週間まえから申込まなければなかなか切符が手にはいらないくらいの盛況である。
エア・ハウスには、最後に人心をおちつけさせるため、奥にこぢんまりした別室がしつらえてある。そこへ腰を据えて飛行場《エロドロウム》への出発を待っていると、女給が出現して、
『|お弁当《ランチ》の御用――ランチはいかが?』
よって機上で消費すべく二人前のランチを命じ、代金を払って受取りがわりの切符を貰う。これを飛行機のなかで呈示してランチ包《づつみ》と交換するのだ。
そばで品のいい英吉利《イギリス》の若奥さんが何国《どこ》かのお婆さんとさかんにおしゃべりしている。
『はあ。ちょっと巴里《パリー》まで。』
奥さんの宣言である。このお婆さんも乗客とみえていささか心配そうに、
『大丈夫でございましょうねえ今日なんか――こんなしずかな日。風はなし――。』
『あたくしなんか随分みなからおどかされましたけれど、でも、この頃ではどんなに風が吹きましても平気だそうでございますよ。』自信あるもののごとく奥さんはつづける。『何でも出発のまえの晩は総がかりで徹夜して、エンジンから機体からすっかり検査してこれでいいとならなければ、決して飛ばないんだそうでございますよ。けれど、なにしろ人間のすることで御座いますから――。』
『ほんとにねえ。』
やがて、自動車の出る合図。
空の旅人を満載した二台の大きな車が、日光・無風・暑熱の場末をクロイドンへ――。
車中、じぶんへの私語。
『どうだい、胸騒ぎはやまったかい。』
安心立命!
安心立命!
あん・しん・りつ・めい!
そのうちに新開地のクロイドンの「|空の港《エア・ポウト》」だ。飛行場《エロドロウム》だ。巨大な建物。壮麗な新築飛行ホテル。整然たる発着所。待合室。絵葉書たばこ類売場。食堂。化粧室。乗客と見送人の雑沓。ふたたび旅券検査。私たちにもバアンス夫人の一家と、妻のあそび友達ミス・ノリスとが早くから見送りに来ている。
『ほんとにいいお天気――。』
『大丈夫ですわね、この分なら。』
『ええ。こんなしずかな日。風はなし――。』
じ・じ・じ・じい――呼鈴《ベル》。
『巴里《パリー》行き! 巴里ゆき!』
これで、ぞろぞろ野原へ吐き出される。
茫漠たる青ぐさの展開しばらく踏みおさめの土。
あ! ならんでる、並んでる! 地に翼をおろして!
飛行機・複葉・とんぼ・無数の水々しい飛行機――新鮮な果実のような、悪戯心に満ちた反撥と弾力をじっと押さえて、OH! お前たちはいま乗るべき微風を待っているのか。
引力の反逆者よ!
思うさま地を蹴れ!
雲を駈る悪魔
GRRRR――。
すでにプロペラの廻転をはじめている淡灰色の莫大な妖怪が、前世界の動物のような筋骨だらけの身体《からだ》をジェリイみたいにこまかくふるわせて、おとなしく私たちの眼前にある。
定期旅客機「銀のつばさ」である。なんと雲に擦《す》り切れ、空によごれたそのすがたの頼母《たのも》しく見えたことよ!
あんなに積んで飛べるかしらと思うほど、客ぜんたいのトランクやらスウツケイスやら鞄やを山のように機の一部へ押しこんでいる。
広場のせいか、飛行場へ行ってみると風がある。帽子の吹きとばされそうな強さだ。
『あら! ひどい風ね。』
『こうなると運を天にまかせるんだね、文字どおり。』
見送り人の一団が遠くに――こわいとみえてそばへは来ないで――かたまって、やたらに手をふったりカメラを向けたりしている。このところちょっと「生きては再び地を踏まず」といった感慨が私たちを東洋的に昂然とさせる。言われるまま機のまえに並んでミス・ノリスのれんず[#「れんず」に傍点]へ社交用微笑を送りこんだのち、車掌――じゃない、機掌だ――に急《せ》き立てられて、他の乗客とともにどやどや[#「どやどや」に傍点]と階段をのぼって機の横腹《よこっぱら》に開いている入口をくぐる。
フォウドのタキシが走り出すまえのような、へんに舞踏的な震動だ。
が、何という愉快な小客間《プチ・サロン》! 機首が高いので坂のように傾斜している細長いキャビンに、両側に窓、みどり色のカアテン、それに沿って片っぽに十人ずつ二十の座席、緑いろ――そもそも緑色は人の神経を鎮静させる効用をもつ――びろうど張りのふくよかな肘掛椅子、上に網棚、まんなかに通路、絵笠をかぶった電灯、白服の給仕がひとり――「空をゆく応接室」と言っていい。
一同またたく間に席へつく。中央部が一ばんいいと聞いていたので、ふたりは素走《すばし》っこく立ちまわって背後《うしろ》から五番目へ左右に別れて腰をおろす。妙にしらじらと冴えわたって、死生|命《めい》あり論ずるに足らずといった心境だ。おもむろに眼をうつして機内を見まわす。
女、十六人――内訳、七十歳あまりの老婆ひとり、中老七人、若い細君――彼女を入れて――四人、女学生三人、五、六歳の少女ひとり。
男、四人――うち自分を含む。但し男女とも国籍不明。これだけが「死なばもろとも」のみちづれである。
Grrrr――が高くなり加速度になり、見送人は一そう遠くへ追いやられる。出発が近いのだろう。みんな無言で一せいに椅子のはしを掴む。と、正面の小窓をとおして飛行士の運転房《カックピット》が見える。そら! 乗ってきた。色の黒い「空先案内《パイロット》」の横顔。や! 笑ってるぞ! 機外の助手に手を上げて――白い歯、太い首、われらの英雄よ! 君はゆうべ充分の眠りをとってくれたろうな。身心爽快だろうな。とにかく、こうしていま二十二個の生命――私と彼女と君じしんとボウイさんのとを通算して――が、すっかり君ひとりの技能と沈着と「|咄嗟の考察《クイック・マインド》」とにかかっているのだ。君、この飛行さえ無事にやりとげたら、僕は同乗客に演説して君のためにトロフィを贈ろう。ブライトンに別荘を建てて献じよう。君の子供たちの教育費は一さい僕らが負担してもいい――。
空は誘惑してやまない。
飛行士の巾ひろい背中がまえへしゃがんだ。
BUMP!
機は地上をすべり出す。
――GRRRR・轟々爆々―― and then, BUMP!
BUMP!
BUMP!
BUMP!
はじめは遅く、ようやく早く、それからあせるように※[#「足+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くように、咆哮し呶号して機は滑走をつづける。
もう誰もそとへなぞ何らの注意をはらう人はない。みな凝結したように無言のまま、「人生の足が土をはなれる瞬間」をじっ[#「じっ」に傍点]としずかに期待している。
私は心描する――倫敦《ロンドン》から巴里《パリー》へ弧のように架けられた七色の虹の橋を。
前世紀人のえがたいその虹を踏んで私たちはいま天を渡ろうとしているのだ。
虹の橋――何という人類の夢の実現! なんという際限もない科学の征服慾!
――まるで射撃中の野砲の内部にでもいるよう、ぷろぺらと機関の音・音・音が完全に鼓膜を独占して、耳のそばで何か言われても金魚があくび[#「あくび」に傍点]してるように口の開閉が見えるだけだ。
となりの彼女がしきりに私を突ついては前を指さす。そしてさかんに何か耳へ詰めている。
へんなことをすると思ってよく見ると、虹の橋なんかとひとり勝手に感激していて気がつかなかったが、前列の椅子の背に、なにか書いたものといっしょに一きれの綿《わた》がはさんである。
「空の旅行者への注意」――とあるから、さっそく読んでみると、左のごとし。
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「帝国空路社《インピリアル・エアウェイス》――LTD――は、この、天空旅行の便宜のために、特に以下列記されたる個条を必ず一読あるべく、われらの乗客各位がそれほど充分親切であらんことを乞いねがうものなり。何となれば、そはこれらの事項を各位の満足にまで説明すればなり。
一、飛行機――空における――の正規の運動。
二、いかにして最大の安楽のうちに天を往くべきか。
三、非常時の対策、およびその場合の心得。」
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第三がずきん[#「ずきん」に傍点]と私の胸を衝《つ》いたこというまでもない。すなわち、あえて依頼を俟《ま》たずとも急遽一読すべく充分以上に親切である。
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「べつに飛行機に乗るために特別の着物は要りません。長時間のドライヴに適当なものなら何でも間にあいます。
離陸のさい、たとえ機が飛行場《エロドロウム》の隅へぶつかりそうに突進することがあっても決して驚いたりあわてたりしてはなりません。飛行機はつねに風にむかって離着陸するものですから、こうしてしばらく滑走しているうちに、いつとはなしに自然に地面から浮かぶのです。
この綿をむしって耳へおつめ下さい。エンジンの音から聴覚を保護するために。
気圧の関係で一時かるいつんぼ[#「つんぼ」に傍点]になることがあります。そうしたら鼻の穴をつまんでおいて力んで下さい。あるいは降機《ランデンク》のときにちょっと唾を飲みこんでもよろしい。すぐ直ります。
方向をかえる場合、飛行機はよく水平を破って一ぽうに急傾斜しますが、これはまったく安全な行動であります。
いわゆる真空《エア》ぽけっと[#「ぽけっと」に傍点]なるものは絶対に存在しません。BUMPと称する小急下降運動は、ちょうど船に波浪が作用するように、気流の上下動に乗って機が小刻みに揺れるだけのことです。
高いビルデングのうえから下を覗いたりする時の眼のくらくら[#「くらくら」に傍点]とする感じは、飛行機には、全然ありません。地上とのあいだに何らの物的|接続《コネクション》がないからであります。
船に弱い人でも飛行機には酔いません。すこしでも気分のわるい方には、一こと仰言《おっしゃ》れば、ボウイが備え付けの薬品をさしあげます。吐壺《カスピドア》も一つずつ皆さんの足もとにあります。が、|空酔い《エア・シクネス》
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