ハは上品にかまえてにこにこ[#「にこにこ」に傍点]していなければならないのが、私にとってはなお面白い。
さんざん日本語でベントレイお婆さんとお婆さんのいわゆる「わたしの家」とをこき[#「こき」に傍点]下ろしたのち、いずれどこかこの近くに移るつもりだから、また会うこともあるだろうと言って小野さんはさっさ[#「さっさ」に傍点]と帰っていった。帰りがけに小野さんがベントレイ夫人に言っていた。
『この方――つまりかくいうヴァレイ氏――はお前が「今まで聞いていたとおり」言葉をつくしてお前のところをすすめてくれるけれど、残念でたまらないのは、お前の家に電話のない一事だ。私は、仕事のうえから電話のない家に住むわけにはいかない、私のビジネスがそれを必要とするから。この点、よく諒解あらんことを望む。では、さよなら。』
ベントレイお婆さんは一言もなかった。
『おおいえす・ぐっどばい!』
なんかと小野さんのうしろ姿にひどく口惜《くや》しそうだった。
私たちのあいだに当分小野さんの噂がつづいた。小野さんは、若いながらも神戸の一輸出会社の倫敦《ロンドン》支店の支配人だった。そう名刺にも書いてあるし、あの短時間の会話に、小野さんはこんなことを話して行った。
『私が日本を出て来るとき、重役のひとりがこういう言葉をはなむけしてくれました。日本人たることを光栄とすべし――というんです。簡単ですが、海外ではこれ以上のモットウはありませんね。私はそのときただぼんやり聞いていましたが、今から思うと、その重役はなかなかどうして豪《えら》いですよ。日本人に生れたことを心から光栄とし感謝する。私はすべてこの意気でやっています。』
そういう時の小野さんにはいかにも若い日本人らしい「色の黒い逞《たくま》しさ」が見られた。私たちは何となく頼母《たのも》しい気がして、この「毛唐ずれ」のした小野さんと、彼の、機智に富んだベントレイ夫人への断り文句などを毎日のように話しあっていた。
そうして間もなく、根気よく散歩に出てさがしているうちに、とうとう私たちもこれならという家を見つけて、さっそく引っこして行った。パレス街の近辺で、ベントレイお婆さんのところからみると一段高級なプライヴェイト・ホテルだった。
移った日、私たちが夕食に階下《した》の食堂におりていくと、はじめてなので案内してくれた主婦のチャンバアス夫人が、食堂の入口で私たちをふりかえった。
『このなかに一つの驚きがあなた方を待っていますよ。日本の紳士が一人泊っておいでなのです。』
戸があくと、いぎりす人ばかりの、広くもない食堂の隅に、いかさま日本人たることを光栄としているらしいひとつの黄いろい顔が、若いくせにおちつき払って、今やその口へ大きな肉片《にくきれ》を押し込み終ったところだった。
『やっ! こりゃどうも――。』
とナプキンを使いながら立ち上るのを見る、とそれが小野さんだった。
『とうとう脱出なさいましたね。いや、結構々々。え? 私ですか? 二、三日まえにここへ来ました。』
『待遇はどうです?』
『駄目です、こんな家。なっちゃいません。近いうちにまたどこかへ移るつもりです。何しろ、ここの婆さんと来たら慾張りで気が利かなくて――。』
そうして、そばに虔《つつ》ましやかにほほえんでいるチャンバアス夫人をかえりみて、小野さんはひどく紳士的口調の英語に取りかえた。
『ヴァレイ氏夫妻よ! あなた方はいま、英吉利《イギリス》におけるあなた方じしんのお宅へ帰ってきていることをはっきりと意識していいのです。それほど高くあなた方がここを評価《アプリシエイト》しても、それはしごくあたり前というべきです。なぜならば、このチャンバアス夫人は驚くほど親切な、おお! 何とまあ感嘆にあたいする婦人であるでしょう!』
すわりながら小野さんは日本語でつけたした。
『ひでえ婆《ばば》あでさあ、因業な――いやはや、どっかいい家はないでしょうかえ。』
五日ばかりして、小野さんのところへ小野さんが自分で打った電報が配達された。これはこうしちゃいられない――小野さんはチャンバアス夫人へそう言って、ひどくあわてて荷物といっしょに出て行った。どうも手ぎわのいいことである。
小野さんは自動車を有《も》っている。だからそれへ蓄音機とタイプライタアと鞄五個と尺八と、小野さん自身とを積載して、小野さんは絶えずロンドンじゅうを泊りあるいているのだ。
このとおり、小野さんはしじゅう下宿をさがしている。
いまもどこかで新しい下宿を物色していることだろうが、小野さんの場合、それは単なる下宿探しというべく、あまりに多分の内的要求がうかがわれる気がする。無意識のうちに、小野さんはホウムをもとめているのだ。その衝動がつねに小野さんをうごかすに相違ない。
ひろい
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