んで来ているのだ。パアク・レイン・ホテルは新しい建物で、さして大きくはないがまず一流。朝の十時、まだあの有名な耳が枕に押しついている頃おい――枕をはなれたが最後、耳も耳の主人もともに外出して、終日|印度大名《マハラジャ》の一行のごとくうろつく危険があるから――を狙って、こうして私は彼女を引具し、職務に興味をもつ――というのはつまり入社後間もない――フリイト街の犬――新聞記者――みたいに奇襲して来た次第である。BANZAI!
 と言うと、いかにも私が、デエリイ何とかの訪問記者にでもなって、この「日本|むすめ《フラッパア》の寵神《アイドル》」――じっさいデエリイ何とか紙は羽左衛門の写真を掲げてこういう説明をつけていた。再びBANZAI!――から何段かを埋めるに足る Story を引き出すべく、常鋭鉛筆《エヴァ・シャアプ》を片手に「好意的批評眼」をぽけっとに忍ばせ、いまし編輯長の激励裡に「紙屑の谷」を駈け出して来たように聞えるが、じつはただ、たまたまこの六月の朝、単なる旅行者としての私と彼女が、Doing the London の重要な一つであるかの名だたるメイフェア彷徨を実行しながら、英文学の教授みたいに温厚なそしてクラシックな品位を養いつつある最中、ピカデリイへ足を向けようとしてちょうどパアク・レインへさしかかったとたん――いったい何ごとによらずいつも「思いつく」のは彼女にきまってるんだが、この時も彼女が思いついて、and as an idea came to her 歩道に急止して私を使嗾《しそう》したのである。
 この近所のホテルに羽左衛門が来てますよ、と。記憶が私を強打した。倫敦《ロンドン》の英字日本新聞アサヒ・ブレテンにこう出ていた――。
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巴里《パリー》より来倫したる市村羽左衛門氏夫妻は目下ピカデリイのパアク・レイン・ホテルに宿泊中。ちなみに近日|蘇格蘭土《スコットランド》に遊び、帰来六月下旬まで滞英の由。
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 ついでだが、この新聞はなかなか奇抜で、じつによくロンドンにおける「日本紳士《ジャパニイス・ジェントルマン》」の動勢を調査し、細大|洩《も》らさず報道している。まず役所・銀行・日本関係の公共機関の所在からはじめて、個人の移転到着退国はもちろん、出産結婚死亡にいたるまでなに一つこの紙面から逃れることは不可能だ
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