、そのまま穏便に別室へ通れば、眼の下にはピカデリイ・サアカスからハイド・パアクへと、およびその反対の交通――車輪と靴による――のざわめき、鉄柵のむこうにグリイン公園の芝生、メイフェアの家々の煙突の林、車道を横ぎる女、手を上げてタキシを呼びとめる老紳士、郵便箱をあけて袋いっぱいにさらえ込んでいる配達夫、それを見物している使小僧《メッセンジャア》、スワン&エドガアの赤塗り荷物自動車、If It's Trueman, It Is a Beer の看板――それらが静粛に扁平に鳥瞰されて、朝のおそいここらにも、さすがにもう昼の事務の開始されているのを知る。が、一たび眼を転じて室内を見わたすや、かたわらの卓子《テーブル》に、主人公羽左衛門が愛読するらしく「面白くてため[#「ため」に傍点]になる」日本の娯楽雑誌――幕末剣客・妖婦列伝・成功秘訣・名士訓話等々満載――が二、三投げ出してあるきり、ここばかりはなつかしき故国の勇敢な延長だ。
 いかさま「日本|娘の寵神《フラッパア・アイドル》――カブキの偶像」が正《まさ》しく鬚《ひげ》をそっているとみえて、水の音が長閑《のどか》にきこえてくる。そこで、その雑誌の頁をぱらぱらと繰っていた私は、間もなく、すぐ眼のまえの戸口に、黒と銀の派手なドレッシング・ガウンをまとった半白《はんぱく》の一人物が、タオルで頬を撫でながらぽつん[#「ぽつん」に傍点]と直立しているのに気がついた。市村羽左衛門の登場――はいいが、なるほど今まで「剃《あた》」っていたらしく、しきりに顎《あご》のあたりを気にして拭いている。縞フランネルのパジャマのずぼんをだぶだぶに折返して――西洋のは脚が長いから――その上から洒落た部屋着《ガウン》なんか引っかけてはいるものの、だんまりのうちによく見ると、やっぱり弁天小僧の、切られ与三の、直侍の、そうしてKABUKIの「大たちばな」だ。いくら西洋のドン・ジュアンに扮したって争われないことには耳が裏切っている。と同時に私は、この倫敦《ロンドン》ピカデリイとメイフェアのあいだにあって、たしかにちょうん[#「ちょうん」に傍点]と木の頭《かしら》を聞き、のし[#「のし」に傍点]のついた引幕の揺れを見、あの雑色的な「おしばや」の空気を感じ、ぷうんと濃厚な日本のにおいを嗅ぎ、弁松の膳《ぜん》――幕あいの食堂で――にむかって衛生|御割箸《おんわりばし
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