ゥで、私は冷たい床板に一そうぴったりと身を貼りつけた。
ひたひたに水をつぎおわると、すっかり安心したらしい女は、かすかな足音とともに部屋を出て行った。あとには私の靴が口きりに水を張って、それに窓ごしの青葉の影がこまかく揺れていた。
狂人だった。おかみさんの姉で、戦争で良人《おっと》をなくしてから気がへん[#「へん」に傍点]になっているのだった。二階の一室に監禁同様にして、しじゅうおかみさんが気をつけて私たちにはひた[#「ひた」に傍点]隠しにしていたのだが、そっと抜け出て来ては、靴に水をそそぐことにのみ、狂える女は異常な興味を感じていたものらしい。じつはこの姉なる人が原因で、下宿人もいつかなかったのだ。私たちはすこしも知らずにいたが、近処ではとうから評判の家だった。
私は、妻の神経と私の靴を保護するために、その日のうちに引越した。出がけに振りかえってみると、私たちのいた二階の窓から、小さな蒼いレムのしかめ[#「しかめ」に傍点]面《つら》が私たちをめがけて突き出ていた。
底本:「踊る地平線(上)」岩波文庫、岩波書店
1999(平成11)年10月15日第1刷発行
底本の親本
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