\―。
 仮りに電車のなかで誰かがいや[#「いや」に傍点]というほど君の足を踏んだとする。このとき、君がもし大英国の紳士!――もしくは淑女――なら、君はしずかにその加害者を振り返って、おもむろに、しかし出来るだけ金属的に、社会道徳上一般に公認された悲鳴をあげることであろう。
『|有難う《キュウ》!』と。
 そしてまた――。
 市街自動車で車掌から切符を買う。すると、車掌も客も同時にこの「キュウ!」をやりあう。車掌は切符を売るのがあたりまえ、客は車掌から切符を買うのが当然で、その間「|有難う《サン・キュウ》」も何もなさそうなものだが、そこらがいぎりすの英吉利《イギリス》たるゆえん――車掌も客も紳士であり淑女である発露なのであろう。もっとも何の意味もない「キュウ!」なんだから、たとえそれが「多謝《キュウ》」のかわりに「地獄へ行け」であってもいっこうさしつかえないわけだけれど――だから、女中が料理をはこんでくれば「キュウ!」その皿を落して割っても「キュウ!」皿のかけが飛んで怪我をしても「キュウ!」雨が降っても「キュウ!」陽が照っても「キュウ!」――で、こういう私たちも、朝から晩までボウイにも門番にも運転手にも「キュウ!」の撒《ま》きつづけだ。
『キュウ!』
 皿を割るというので思い出したが、こっちで日本に関してこんなことをいう。
 ある金持の家に、中世紀から伝わっている古い英吉利《イギリス》の皿が十二枚そろっていた。こんなに見事なものが一|打《ダース》そっくりあるのは非常に珍しいとあって、その家でも大いに大事にしていたところが、何かの粗相《そそう》で一枚こわしてしまった。そこで、残念でたまらないというので、いろいろ相談の結果、一枚同じのをつくらせて補うことになったんだが、そのふるい製法はいぎりすではもうあとかたもなく消えてしまい、どこへ訊きあわせても、それと同じ模様、おなじ色あい、同じにおい[#「におい」に傍点]を出し得る自信をもって引き受けようというところは一軒もない。一|打《ダース》の半ばを満たそうというんだから、言うまでもなくすべての点で完全に他とおなじでなければ、新たに大金を投じて一枚焼かせる意味をなさないから、躍起になってあちこち照会した末、とにかく日本という国は物を真似《イミテイト》することにかけては世界の天才だから、こういう仕事には日本が一ばん適任だろうということに一決し、こわれた皿のかけらを全部あつめて、これと寸分違わないものを拵《こしら》えるようにとはるばる日本の一名匠へ註文したのだった。と、驚いたことには、早速出来上って送ってよこした。主人公は大満悦、たいへんな期待で包みを解いてみると――出て来たのは、色から模様から「時代」まで元品《オリジナル》とすこしも変らない皿――ではあったが、見本に送ったこわれた皿と完全に同じに、それは一枚分の新しい皿の破片で、べつに手紙がついていた。
「ずいぶん骨が折れ候《そうら》えども、仕事はかなり細かきつもりに御座候《ござそうろう》。ちなみに見本の皿破片全部別送|仕候《つかまつりそうろう》あいだ、なにとぞ新品とお較《くら》べのうえ御満足をもって御嘉納下さるよう願上げ候。頓首。」
 主人は、のこりの十一枚のうえへ思いきりよく卒倒した――というのがおち[#「おち」に傍点]だが、もちろん、これは、日本人は真似が上手すぎてこんなに融通が利《き》かないということを言いたいつもりなんだろうけれど、いぎりす製の莫迦《ばか》ばなしだけあってどうも狙いが外《はず》れていてぴったり[#「ぴったり」に傍点]来ない。気の毒だが、敵ながら天晴《あっぱ》れとは言えないのだ。私から見ると、この場合、日本のその陶工のほうが一枚も二枚も役者がうえである。一境地に達している。この話をそのままに取っても、この勝負、あきらかにかれの勝ちだ。下宿の食卓で同席のいぎりす人からこの笑話を聞いたとき、私はいみじくもなせるものかなと大いにうれしく思った。が、私は黙っていた。いくら論じたって彼らには金輪際《こんりんざい》わかりっこないことを知っているからだ――私は紳士的微笑とともにしずかに麺麭《パン》をむしりながら話題を転じただけだった。
 日本と言えば――。
 たいがい英吉利《イギリス》人が――それもかなり知識階級の人でさえ――日本に関してじつに何も知らない。いや、知ろうとしない――いぎりすの可哀そうな自己満足がここにもあらわれて――事実には、じつに驚かされる場合が多い。だから私たちは、いつ何どきどんな奇問を浴びせられても動じないだけの用心をつねに必要とする。ちょっと親しくなるが早いか、すぐこうだ。
『日本の家はいまでも紙で出来ていますか。』
『梯子《はしご》段も紙製ですか。いつも不思議に思うんですけれど、どうして紙の階段で昇ったり
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