蛯ネ責任にいささか身体《からだ》を硬《こわ》ばらせていた、と告白したほうがいいかも知れない。つまり、すくなからず気取っていたのである。
公衆のまえで気取ると私は顔面から水蒸気を発散するのがつねだ。ことにその日は暑かったので、私は、鏡のなかの私からぽっぽと湯気が立っているのを見た。
ちょうど客一同のあいだに不自然な沈黙がつづいている最中だった。無言でいることの苦痛な床屋は、私の水蒸気に気がついたのを機会に、それを利用して、ちょっと変なその場の空気を救うべく、えへん! と一つ英語で咳払いしてから直接私へ話頭を向ける。
『お暑うございますな今日は。』
べつに反対すべき理由もないから、私もかるく同意の旨を発表する。
『然り。何と暑き日でこんにちのあることよ!』
『全くこうあつくちゃあやり切れませんな――しかし、こんなのはそう長くは続きませんよ。きっと、また明日あたりみんな外套を着るでしょう、へへへへ。なあデック!――と大きな声でデックへ――ロンドンの天気だけあわからねえなあ。』
『そうよ。ロンドンの天気だけあからきし[#「からきし」に傍点]わからねえ。』
順番を待っているデックが答える。こいつが店へ這入《はい》ってきたとき魚のにおいがしたから、按ずるに、このデックは四、五軒さきの魚屋《フィシュ・バア》の若い者であろう。と言っても、べつにいなせ[#「いなせ」に傍点]ななりをしているわけではない。金いろの毛の密生した手で新聞を読んでいる。
『じっさい、』と床屋は私の頭のうえで、『もう二、三時間もしたらわたしの考えじゃあざあっ[#「ざあっ」に傍点]と一雨来ますね。それからぐっ[#「ぐっ」に傍点]と涼しくなりまさあ。』
『われは、そのなんじの予言の真実ならんことを望む。』
これは言うまでもなく私だ。何だか知らないが床屋はひどく驚いている。
『おや! 旦那は暑いのはお嫌いですか?』
『われは、あまりに寒きを好まざるがごとく、あまりに暑きをも好まざるものなり。』
『へえい! そいつあ驚きましたね。わたしゃまた、旦那あ寒いのあ閉口だろうが、暑いのはどんなにあつくても、暑くて困るってこたあないのかと思ってましたよ。』
『そも何が汝をしてしかく思わしめしや?』
『だって、暑さには慣れておいででしょう? お国は素敵にあついんじゃありませんか。』
『われらは故国において相当暑き夏と、相当さむき冬と、ちょうどよきところの春と秋とを持つ。』
『ひゃあっ! 年が年中べらぼうに暑いってえじゃありませんか。うそ[#「うそ」に傍点]ですか?』
『否《いな》。そは断じて事実にあらず。』
会話の速度が早まるにしたがい、私は一そう切口上だ。床屋は非常に不服そうな顔をしている。
『そうですかねえ――ばかに暑いってことを聞いたがなあ。うそですかねえ、すると。』
そこで私は、念のために訊いてみた。
『汝は果して世界のいずくに関して談じつつあるや、われこれを疑う。』
すると床屋が言下に応答した。
『印度《インド》じゃありませんか勿論――お顔は? お剃《そ》りになりますか。』
『否《ノー》!』
『洗髪《シャンプウ》は?』
『否《ノー》!』
『おつむりへ何か?』
『否《ノー》!』
『香油でも――。』
『否《ノー》!』
八|片《ペンス》おいて出てくるときひょい[#「ひょい」に傍点]と鏡を覗くと、真赤に憤慨中の「印度人」が、この小さく傷つけられた民族の誇りに、いよいよ昂々然と刈りたての頭を高く持しているのを発見した。
戸外は、それこそ印度《インド》猛夏の日中だった。
亜米利加《アメリカ》ではしじゅう支那人あつかいされたものだが、どういうわけか、いぎりすへ来たら今度はよく印度人に間違われる。これも或る日の午後、私はろんどん一流の百貨店セリフリッジ、彼女の命令により旅行用の衣裳掛け――あの、折畳式になって皮のふくろに這入ってるやつ――を、hunt down すべく、ちょうど買物時刻の人ごみのなかを血相かえて右に左に奔走していた。すでにこんな努力が必要だったくらいだから、いかにその折畳式袋入衣裳掛なる物品が、ふくろにはいっているせいか旅行用品部のどこを見ても決して露出していなかったかがわかろう。そのうちにつるべ[#「つるべ」に傍点]落しの夏の陽はとっぷりと暮れかかるし、足は棒のようになるし――これじゃあまるで山道にさしかかっているようだが――いったい私は、何ごとによらず西洋人にものを教えてもらうことが大嫌いで、ロンドンなんかでもたとえどんなに途《みち》に迷っても never 人に訊くということはしないんだが、この時だけは仕方がないから、恥を忍んでちら[#「ちら」に傍点]と見えた売子監督《フロア・ウォウカア》へ駈け寄った。
執事《バトラア》と門衛《ドアマン》と売子監督《フロ
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