T点]していた。
 ロンドンへの路をありとあらゆる類型の乗物がつづく。歴史的に有名な「ダアビイの帰り」だ。洗濯屋の箱車《ヴァン》の屋根に、その家族らしい肥ったおかみさんと子供たちが鈴成りに足をぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]させて、笑いながら歌いながら、私達を追いこして行った。Old time coach の紳士倶楽部員と、老夫婦をのせた騾馬《らば》車の鈴、赤・黄・緑の見物自動車《シャラパンク》と最新のロウドスタア。
 田舎みちの両側、ろんどんへはいってまでも大通りの歩道は、ふるい習慣によりダアビイがえりの私たちから銅貨をほうってもらおうという巷《ちまた》の子供らでいっぱいだ。
[#ここから2字下げ]
黴《かび》の生えた銅貨でいいから
一つ抛っとくれ――いっ!
Throw me out a mouldy copper !
[#ここで字下げ終わり]
 と一せいに声を張り揚げるんだが、この「すろうみあうたもうでぃかぱあ」が、自動車の速力でひとつに消されて、私たちの耳を聾《ろう》するのは、灯のつきそめた裏街をいたずらに震撼する、無意味な、そして愉快に執拗な金切り声の何|哩《マイル》かにすぎない。
[#ここから2字下げ]
ああ――ん!
ああ――ん!
ああ――ん!
[#ここで字下げ終わり]

   散歩者の感情

「旅は、はるばるほんとの自分をさがしに出るようなものだ」という。この「ほんとの自分」として最初に行ってくるのが、じぶんの属する人種と国籍にいまさらのように気のつくこと。そしてそのもっとも端的な場合が――床屋だ。
 で、これは床屋での出来事――出来事というほどのことでもないが――である。
 いったい日本でも理髪店は私を臆病にする。鏡という女性的な、伝説的な存在のまえで、刃物と饒舌が思うさま活躍するからだ。ことに白い布を首のまわりへ押しこめられて、大きな椅子に捕虜になっていると、私はすっかり自信をうしない、かがみの中の自分へむかってひたすら恐縮する。「一男子がこころから友達を要求する時」――そんな気がしてくるのだ。
 だからその時も、こみ上げてくるこのはかなさ[#「はかなさ」に傍点]で一ぱいになりながら、私は椅子にじっ[#「じっ」に傍点]として一刻も早く「手術」がおわるのを待っていた。倫敦《ロンドン》の町はずれの、一住宅区域内の商業街の、煙草屋の奥の床屋である。午後二時半。良人《おっと》たちはみな市の中心へ出勤し、夫人達はそろそろお茶の支度にかかり、胃は昼飯《ランチ》を消化して睡気《ねむけ》をもよおし、交通巡査はしきりに時計を見て交替にあこがれ――これを要するに、町ぜんたいがようやく一日の疲れを示し出して、蠅《はえ》と床屋の鋏《はさみ》と太陽だけがますます調子づくほか、一時ちょっと万物が虚脱するような真昼の静寂だった――どうもいかにも大事件が突発しそうだが、また私じしんにとっては確かにひとつの衝懼《ショック》にちがいなかったが――。
 ところで、「|近処の床屋《ネイバフッド・バアバア》」と言えば、その舞台装置はたいがいきまってる。あんまり綺麗でない壁にあんまり綺麗でない大鏡が二個|乃至《ないし》三個ならび、そのあいだに角の演芸館《ヴァライティ》の二週間まえのびら[#「びら」に傍点]と、ジョニイ・ウォウカア―― Born in 1882, still going strong ――の広告絵がかかり、あんまり綺麗でない白衣を着た床屋が――床屋のくせに髪をぼうぼうさせて――とにかく、出はいりの誰かれとみんな知合いとみえ、
『よう、ハアリイ! あれからどうしたい?』
『へっへ、ゆうべの勝負か――とうとう七|志《シリン》の負けさ。』
『わりに軽傷で済んだね。』
 なんかと昨夜《ゆうべ》の歌留多《かるた》を追憶したりすること日本におなじ――そのハアリイやデックやタムが、ちら[#「ちら」に傍点]とひとつの鏡を見ては一様にちょっとおどろいている。そこに、黄色い黒い顔の、眼の吊り上った、針金みたいな黒髪の異形な人物の映像がありありと写っているからだ。が、入り代り立ちかわりする外来者が、南あめりか森林地帯で捕獲された不運な小動物――学名未詳――を見学するときの、明白な好奇心と多少の不気味さをあらわした眼をもって、いくら斜めに――正面から凝視することはこの怪人を激怒させるかも知れない。そして犬や猫をさえ激怒させるようなことはしないのが英吉利《イギリス》の紳士だから――見ようと、その映像の本尊たる私は平気以上に平気だ。とは言え、たださえ床屋における私は一ばん弱い瞬間の私だ。私は正直に、このとき私は私のなかの日本人を意識し、三千年の光栄ある歴史を思い、私のうしろにぼうばい[#「ぼうばい」に傍点]たるにっぽんの背景を感じ、この床屋の椅子のうえで、民族代表の重
前へ 次へ
全17ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング