Cへ水をつぐやつがあるものか。知らないよそんなこと。』
『だって、変じゃあありませんか――。』
『変だとも――大いにへん[#「へん」に傍点]だとも!』
 おなじことを繰り返しながら、私たちはいつまでも両方から靴を覗きこんでいるだけだった。
『ほんとにただの水でしょうか?』
 しばらくして彼女が言った。私は鼻を近づけてにおいを嗅《か》いでみた。無臭だ。やはり、水はただの水らしい。が、そのただの水が、どうしてこの部屋のこの靴の片っぽにこんなにあふれんばかりに存在することになったのか?――私は、反射的に仰向《あおむ》いて真上の天井を見た。雨漏りというようなことを瞬間私は想像したのだが、言うまでもなく、天井には隙間はおろか汚点ひとつなく、第一、ここは二階で、うえにもう一つ三階があるのだし、それに、私は何という馬鹿だったろう、きょうすこしも雨の降らなかったことは、誰よりも、一日外出していた私が承知しなければならないはずだった。また事実珍らしくいいお天気だったからこそ、私たちもこうして朝から夕方まで歩きまわったわけだった。
『不思議だなあ。』
『妙なことがあるものですわね――おかみさんが間違って水をこぼして、そのまま気がつかずに、出て行ったんじゃないでしょうか、お掃除のときにでも。』
 彼女が思慮ぶかそうな眼をして言った。私たちはまだ、靴のうえに蹲跼《しゃが》みこんでいたのだ。彼女のこの想定にも一理ある。私はそう思った。で、私は水の動揺しないようにしずかに靴を持ち上げておいて、犬のように床に手をついて注意してそこらを撫でまわしてみた。もし、なんらの故意と技巧なしに靴の上から水をこぼして、偶然それが、こう今にもあふれそうに内部にそそがれたものならば、これだけの分量の水が靴を満たすためには、一足の靴ぜんたいはもちろん、その周囲の敷物一体が、より多分の水量を受けたものであろうことは、ごく自然に考えざるを得ない。そして、そんなにたくさん水がこぼれたとしたら、靴のなか以外に、一目瞭然としてそこらにあとが残っているはずだし、なによりも、靴とそのまわりへそれほど水を落しておいて、過失にしろ何にしろ、人一ばい眼と耳と口の働く下宿のおかみなる人物が、それに気がつかずに、靴に水を充満させて放任しておくということは、いうまでもなくちょっと肯定しにくい。論より証拠、水は靴をみたしているほか、その他の場
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