オてそこに一つの驚きを経験したのだった。これは、その土地の生活に親しみを知る最初であり、旅行者としての私達が自分じしんに課する「速力あるフレキシビリティ」から言っても、まず安心し自負していいと私は思ったりした。こうしていつともなしにいくぶん彼等に同化しつつある私達のうえに、窓から見るテムズの一部は朝晩の色をかえて、無風帯の日がつづいて行った。

   水を吹く靴

『あらっ!』
 一番さきに見つけたのは彼女だった。
『どうしたんでしょう? 靴に水がはいっていますよ。』
 というのだ。何を妙なことを――と思いながら、彼女の真剣な顔におどろいた私は、いそいで駈けよってみた。なるほど、けさ家《うち》を出るとき寝台の横に脱ぎすてて行った私の代りの靴が、片っぽだけ浪々《なみなみ》と水をたたえている。
『――!』
『――!』
 私たちは黙って顔を見合った。あちこち移ってあるいた一つの、その聖マアテン街の素人下宿である。朝から外出していま帰ってきた私達を、部屋へ這入るなり、このへんてこ[#「へんてこ」に傍点]な現象が待ちかまえているのだ。
 じっさい、ちょっと説明のつかない異常事である。
 私はよく覚えている。私は、出がけに靴をはき更《か》えて、その一足をいつものように乱雑に寝台の下へ蹴込《けこ》んでおいたはずだ。それがいまこうして壁の切り炉のまえにきちん[#「きちん」に傍点]と揃えてある。これはいい。私たちの留守のあいだに、宿のおかみさんが部屋を掃除することになっているのだから、そしてお神《かみ》さんは、貧乏にかかわらず人なみはずれて整理好きだったから、きょうに限らずいつだって私たちのぬぎ散らして出た靴は、おかみさんによって煖炉のまえに並べられるのがつねだった。
 しかし、問題は水である。
 下宿人の靴へ、しかもその片方《かたっぽう》へ、おかみさんが水をいっぱい注《つ》ぎこんでおこうとは、どうしても考えられない。が、事実は事実だ。このとおりいっぽうの靴に満々と水がみたされて、しかもかなり長時間そこに溜っていた証拠には、内側の皮のいろが水に溶けて、それはうすい黄味を帯びた透明な液体だった。ついでだが、四、五日まえにリジェント街のマンフィルドで買ったばかりの新しい靴なのだ。
『まあ! 何でしょう? あなた自分で入れたんじゃないわね! こんなところへ水を。』
『莫迦《ばか》な! 誰が
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