黷ェ一ばんいいらしい。
『職業は何か。』
 私がもじもじ困っていると、そばから肥ったお婆さんが口を出した。
『芸術家《アルチスト》?』
 そうだ! 何と便利なことばを思いついてくれたろう!――と私がよろこんでいるうちに、むこうでさっさ[#「さっさ」に傍点]とそうきめてアルチスト・アルチストと私語《ささや》きあっている。どうも見たところ比較的好意を寄せてるらしいから、だいたい大丈夫だろう――それから例によってさんざん戸籍しらべみたいなことを繰返したあげく、
『署名出来るか。』
 と肥ったお婆さんがおっしゃる。あとで聞くとこれが上役だそうだ。私はまた洗濯婆さんが油を売りに来てるのかと思った。
 やがてのことに別室へ呼び込まれる。カラハンみたいな大男が鼻眼鏡をかけ直して写真と私を見くらべて首実験をする。ラスコウリニコフの部屋のような暗い陰惨な事務室に、硝子《ガラス》ごしに青葉がうつろい、天井に陽の斑《まだら》がおどって、解剖台を思わせる大きな机のうえに、たった一つ、あまりに周囲とかけ離れた物が置いてある。金に宝石をちりばめた高さ一尺ほどの時計だ。革命のときにどこか貴族の家からでも持ち出したも
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