トんにおもむく》長春汽車中作
万里平原南満洲《ばんりのへいげんみなみまんしゅう》 風光潤遠一天秋《ふうこうじゅんえんいってんのあき》
当年戦跡留余憤《とうねんのせんせきよふんをとどむ》 更使行人牽暗愁《こうしこうじんあんしゅうをひく》
[#ここで字下げ終わり]
「日露の親和がこの汽車中にはじまり、汽車の前進するがごとくますます進展せんことを望む。」公はこう言って露西亜《ロシア》側の接待役を見まわしながら、しきりにつづける。「|余は露西亜人を愛す《ヤ・リュブリュウ・ルウスキフ》。」
この「日露の親和がうんぬん」のことばは、公の死後、非常な好意をもって露人のあいだに喧伝された有名な言辞だ。
ふたたびタイトル。
「そうして午前九時――。」
と、これから暗殺の場面へ移るのだが、まあ止《よ》そう。
それよりも同車の満鉄のG氏が、私の肘《ひじ》を掴《つか》まえて大声に話している。
『列氏零下五度、こまかい雪が降っていましてね、猛烈に寒い朝でしたよ。ピストルの音ですか。いいえ、日本人の一般出迎者はずっ[#「ずっ」に傍点]と左の端のほうにいたので、何も聞えませんでした。いえ、聞いた人もありましたが、支那人が歓迎の意味で爆竹を打ちあげたのだと思ったそうです。すると伊藤公が撃《や》られたというんでしょう、さあ大変、みんな滅茶苦茶に飛び出して行って、わいわいごった[#「ごった」に傍点]返しです。露助の兵隊なんか大きな刀《やつ》を振り廻してやたらに、ヤポウネツ・ヤポンツァ! って呶鳴《どな》る――。』
『ちょ、ちょっと待って下さい。』私はあわてる。『その、それは何です――ヤポ・ヤポってのは?』
『|日本人が日本人を《ヤポウネツ・ヤポンツァ》! というんですね。で、わあっ[#「わあっ」に傍点]と押し出したのはいいが、線路へ落ちるやら兵隊に蹴《け》られるやら――そのうちにぎゃっ[#「ぎゃっ」に傍点]! というもの凄い声が聞えましたが、それは人混みのなかで露助の兵隊が安重根《あんじゅうこん》を捕まえたときに、先生夢中で頸部《くび》を締めつけたもんだから、安《あん》のやつ苦しがって悲鳴をあげたんです。私も一生懸命でしたよ。爪立《つまだ》ちして伊藤公の担《かつ》がれて行くのを見ていました――。』
汽車を降りた私たちは、二十年前に公の狙撃された現場に立った。その地点は、一・二等待合室食堂へ向って、左から二番目と三番目の窓の中間、ちょうど鉄の支柱前方線路寄りの個処だ。が、いくら見廻しても、どこの停車場のプラットフォウムにもある、煤烟《ばいえん》と風雨によごれたこんくりいと[#「こんくりいと」に傍点]平面の一部に過ぎない。いや、平面と呼ぶべくそれはあまりにでこぼこして、汽車を迎えるために撒《ま》かれた小さな水たまりが、藁屑《わらくず》と露西亜《ロシア》女の唾と、蒼穹《そうきゅう》を去来する白雲《はくうん》の一片とをうかべているだけだった。
G氏の案内で構内食堂の隅に腰を下ろす。ここはその朝、外套に運動帽子といういでたちでレスナヤ街二十八号の友人|金成白《きんせいはく》――レスナヤ28は、いま、見たところ何の変哲もない荒れ果てた一住宅だ――の家を出た安重根が、近づく汽車の音に胸を押さえながら、ぽけっとのブロウニング式七連発を握りしめたという椅子である。殺した人も殺された人も、もうすっかり話しがついて、どこかしずかなところでこうして私達のようにお茶を喫《の》んでいるような気がしてならない。
ハルビン――不思議が不思議でない町。
OH・YES! HARBIN。いろんな別称で呼ばれるわけだ。
あらゆる人種と美しい罪の市場。
海のない「上海《シャンハイ》」。
そうして、極東の小|巴里《パリー》。
さればこそ、どんな冒険にでも勇敢《ゲイム》であるべく、彼女の口紅は思いきり濃くなり、やけに意気っぽく帽子を曲げる。AHA!
夕陽に十字を切る
火酒《ウォッカ》のように澄み切った空気のなかを、うそ寒い日光が白くそそいで、しっとりと去年からの塵埃《ほこり》をかぶった建物と、骨の高い裸《はだ》かのどろ[#「どろ」に傍点]柳と、呪文のようなポスタアを貼った広告塔と、塑像のように動かない街角の支那巡査、ぬかるみのまま固化した裏通り、zig zag につづく木柵、剃刀みたいにひやり[#「ひやり」に傍点]と頬に接吻して行く松花江《しょうかこう》の風、そよぐ白楊《はくよう》と巻きあがる馬糞の粉と、猶太《ユダヤ》女の買物袋と帝政時代の侍従長のひげと。
過去と未来が奇《きく》しく交響する、哈爾賓《ハルビン》はいつもたそがれ[#「たそがれ」に傍点]の街だ。
そこでは、朝も昼も真夜中も、すべてが夕ぐれの持つ色とにおいで塗りつぶされて、その歴史もその市民も、坂も空地
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