熄、業街も電柱も石ころも、それらの発散する捨鉢《すてばち》な幻怪味と蟲惑《こわく》も、音楽も服装も食物も、みんな落日《おちび》を浴びて長い影を引いている。言わば、小さな暴君に飽《あ》かれて顧みられない玩具。Or ――発狂した悪魔詩人が、きまって毎夜の夢にさまよう家並《やな》み、それがこのハルビンである。
 ホテルの三階の部屋から私は下の往来を見おろしていた。女学生らしい赤い帽子の露西亜《ロシア》少女が、青い林檎《りんご》をかじりながら手を上げて、泥だらけの乗合自動車を停める。兵卒みたいな腕力家の車掌が荷物のように彼女を摘《つま》みあげて行った。蒙古人の皮鞋匠《ひあいしょう》が石だたみに道具を並べて、眼のまえの通行人の足をぼんやり眺めている。靴直しだ。支那人が鶏を抱いてくる。盗んできたものに相違ない。かれは、三歩ごとにうしろを振り返っては急いでいるから。
 向側は露西亜人の食料品店とみえて、ほこりにまみれた缶詰と青物がほんのすこしばかり飾窓《ショーウインドー》に散らばって、家の横に貼った黄色い紙が、あやうく飛びそうに土けむりにはた[#「はた」に傍点]めいている。阿弥陀仏、念々不忘、福徳無量と印刷してある。極楽寺とかいう近ごろ出来た支那寺の伝導標語であろう。楽隊がきた。羅馬《ローマ》字を裏から見るような露西亜語のびら[#「びら」に傍点]を自動車の腹へ掛けて、三人の楽手が、それでもみずからの貧しい旋律に十分陶酔して疾駆し去った。漢字の旗が板みたいに空《くう》に流れて立っていた。電影子園《でんえいしえん》というのは常設館のことだろう。「哀憐公子」と映画の題が大きく書いてあった。
 風がひどい。町ぜんたいを引っ掻《か》き廻す気流の渦だ。市街の果ての平原に煙幕のような蒙古風が巻き立ったかと思うと、視界はもう人類最後の審判の日のように、赤く暗く霞《かす》んで、色の附いた空気があらゆる隙間から、室内へ、机の上へ、寝台へ、そして私たちの鼻口へ、おそらくは肺の底へまで音を立てて侵入してくるのだ。そのために椅子の背も人の肩も、十|哩《マイル》むこうの土砂の粉末を載せて真白である。咽喉《のど》が乾く。冬以来雨というものがないという。
 が、一たびこの大規模な、そして色彩的な風が屋根を包んで過ぎると、あとには、火酒《ウォッカ》のように澄みきった大気のなかをうすら寒い日光が白くそそいで、哈爾賓《ハルビン》はやはり根気のいい植物のように、じいっと何かを待って展開している。
 グランド・ホテル――格蘭得火太立《グランド・ホテル》旅館という物々しい支那語の看板をかかげたホテルに、私たちは宿をとっているのだ。三階の自室の窓に立つと、大陸の気層は魔術的だ、けさ着いた停車場《ワグザル》の建物をすぐ眼のまえに見せて、鬱金《うこん》木綿の筒っぽのどてら[#「どてら」に傍点]のようなものに尨大な毛の帽子を載《いただ》いた支那人の御者が、車輪から車体から座席、馬にいたるまで土とほこりに汚れきった一頭立ての軽馬車を雑然とかためて、高粱《こうりゃん》の鞭《むち》を鳴らして何か大声に罵りあいながら客待ちしているのが、遠く噪《さわ》がしいだけにうつろに眺められる。ホテルの玄関の両側には、満洲人の果物売りが朝早くからずらり[#「ずらり」に傍点]と歩道に荷をおろして、商売に関係なく暗くなるまで居眠りしている。たまに上海|蜜柑《みかん》の一つも売れようものなら、われながら不審げにきょとん[#「きょとん」に傍点]とするが、すぐに忘れてまた眠り出す。そうして襟《えり》へしみる夕風に急に驚いたように籠を片づけて、何人も何人も薄あかりのなかを連れ立って帰って行くのだ。
 おちぶれた貴族が、猥雑な現在の生活においても、なおかつ過ぎ去った豪奢と栄誉を忘れ得ずに、いつか再び同じ日のまわってくることを固く信じてその望みにのみ生きている――といった|ものの哀れ《パセティック》なこころは、ハルビンとハルビンらしいすべての姿に胸を打って感じられる。この格蘭得火太立《グランド・ホテル》旅館がそうだ。その入口にはセゾンの終った歌劇の広告が老プリマドンナの白粉《おしろい》みたいに剥《は》げかかっていても、ちりめん紙を巻いたごむ[#「ごむ」に傍点]の木の鉢のかげには、確《たしか》に玄関番《ドアマン》の制服が金ぼたんを光らせているし、安物の絨毯《じゅうたん》は旅行者の踵《かかと》に踏みやぶられようとも、その大広間は赤の一色で装飾され、ジョニイ・ウォカアの広告油絵と、東支鉄道の灰皿と、大阪製の巨大な花瓶とを宝物のごとくに安置し、一九二四年度の加奈陀《カナダ》太平洋会社汽船案内と近着の巴里《パリー》雑誌ラ・ヴィ・パリジャンヌとが、隣り合わせにきちん[#「きちん」に傍点]と揃えてあり、食堂は、肥満せる猶太《ユダヤ》系|独逸《
前へ 次へ
全16ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング