とんど先天的な約束をさえ見出しかけていると、彼女も眠れないとみえて、下の寝台で寝返りを打つのが聞えた。
『どうしたい、まだ降ってるかい?』
『え?』
『雨さ。』
『いいえ。』
『どのへんだろう此処《ここ》――。』
『さあ――静岡あたりでしょう、きっと。』
黒と白だけの風景画
「下関」
むらさき色の闇黒《あんこく》。警戒線。星くず。
無表情な顔をならべて関釜《かんぷ》連絡T丸の船艙へ流れこむ朝鮮人の白衣《びゃくえ》の列。
「釜山」
あさ露に濡れる波止場の板。
赤い円《まる》い禿山。
飴《あめ》と煙草―― e.g. 朝鮮専売局の発売にかかるカイダ・マコウ・ピジョンなど・など・など。
停車場への雑沓。
バナナを頬張りながら口論している色の黒い八字ひげと、金ぶちの色眼鏡。
内地人の薬売り――新植民地情景。
「京城まで」
土塀と白壁。赤土。黒豚。
小川。犬。へんぽんたる洗濯物。
教神――水晶洞所見。
滝頭山《ろうとうざん》神社のお祭り。
勿禁院洞《もっきんいんどう》と読める。
皇恩|浩蕩《こうとう》とも書いてある。
長いきせる[#「きせる」に傍点]と荷馬車。
褐色の連続を点綴《てんてつ》する立看板の林――大学眼薬、福助|足袋《たび》、稲こき親玉号、なになに石鹸、仁丹、自転車ソクリョク号、つちやたび、風邪には新薬ノムトナオル散、ふたたび稲こきおやだま号、ナイス印万年筆、スメル香油、何とか歯みがき、& whatnot。
「京城」
降りて行った亜米利加《アメリカ》の女伝導師と、彼女の靴下のやぶれ。
午後七時四十分。
「安東まで」
低い丘。雑木林。
金泉で雨。
黙々として黒く濡れている貨車。
停車場の棚に金雀枝《えにしだ》がいっぱい咲いていた――三浪津《さんろうしん》の駅。
秋風嶺《しゅうふうれい》でも雨。
見たことのあるような気のする転轍手《てんてつしゅ》の顔。
鉄道官舎のまえに立っていた日本の女。
唐傘《からかさ》。雑草。石炭。枕木。
日の丸。
小学校。
「安東」
税関。鉄橋。驟雨。日光。
「奉天まで」
ゆるいカアキイ色の起伏。
展望車に絵葉書がおいてある。唐獅子の画に註して曰《いわ》く。「現今民国有識階級ニ於《おい》テハ華国ハ眠レル獅子ナリト言ヒナサレ覚醒又ハ警世ノ意アリテ尤《もっと》モ喜バル」と。
なになに聯隊奮戦の地。
連山関《れんざんかん》の郵局。
「赤い夕陽」
ほんとに真赤な、大きな、火事のような入り日だ。
「奉天」
のりかえ。
「長春」
のりかえ。
支那馬車のむれ。
客桟《かくざん》で人を呼ぶ声。深夜。
やすい煙草――大愛国香烟、長寿牌大号、中国出産|中俄煙《ちゅうがえん》公司。
南京豆の皮を吹く砂まじりの風。
水菓子屋の灯《あか》り。
午前十二時十分発。
「哈爾賓《ハルビン》まで」
万国寝台車の一夜。巴里《パリー》に本社のあるワゴンリイのくるまだ。まるで宮殿のよう――と彼女が讃嘆したとおりに、飴いろに金ぴかの装飾が光っている。
中華民国のかたではありませんか、と呼びかけられて、下関で高等係の人からかなり長い質疑応答をやらせられた私達――断っておくが、私はながい外套にへん[#「へん」に傍点]なぐあいに帽子を潰《つぶ》してかぶり、彼女は断髪にしかと花束を抱えていた――も、長春では、旅券をしらべに車室へ来た支那の官憲が、一眼《ひとめ》で日本人と白眼《にら》んだためにそのままに済んだ。――のはいいが、故国の役人には支那人に間違われ、支那人にはすぐに日本人と看破される。やはり、旅だ。
「ハルビン」
灰色にくすぶる新市街の停車場。
殺到する支那の赤帽。手荷物略奪戦。
りゃん・りゃん・りゃん!
まあやあ・ほいほい!
てんが・れんが・れん!
For God's sake, wait ! ――この一種物語的なひびきを持つ都会の名は、私たち日本人にただちに公爵伊藤の死を聯想させる。
で、これが映画なら、さしずめここでカット・バックというところだ。すなわち、画面全体が見るみるぼや[#「ぼや」に傍点]けて、そこに過去の話中話が煙りのように浮かび出る――こんなふうに。
最初スクリンいっぱいに、疾走中の汽車の車輪を大きく見せて、つぎに字幕《タイトル》。
「明治四十二年十月二十六日午前八時、元勲伊藤公の坐乗せる特別列車は、長春より一路|哈爾賓《ハルビン》をさして急ぎつつあった。」
食堂車内の景。
伊藤公が、金の飾りのついた洋杖《ステッキ》をかたわらに、何か書いた紙片を満鉄総裁|中村是公《なかむらぜこう》氏、宮内大臣秘書官森泰二郎氏に示している。漢詩人|森槐南《もりかいなん》が微吟する。
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十月二十五日発|奉天赴《ほう
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