黷ェ一ばんいいらしい。
『職業は何か。』
私がもじもじ困っていると、そばから肥ったお婆さんが口を出した。
『芸術家《アルチスト》?』
そうだ! 何と便利なことばを思いついてくれたろう!――と私がよろこんでいるうちに、むこうでさっさ[#「さっさ」に傍点]とそうきめてアルチスト・アルチストと私語《ささや》きあっている。どうも見たところ比較的好意を寄せてるらしいから、だいたい大丈夫だろう――それから例によってさんざん戸籍しらべみたいなことを繰返したあげく、
『署名出来るか。』
と肥ったお婆さんがおっしゃる。あとで聞くとこれが上役だそうだ。私はまた洗濯婆さんが油を売りに来てるのかと思った。
やがてのことに別室へ呼び込まれる。カラハンみたいな大男が鼻眼鏡をかけ直して写真と私を見くらべて首実験をする。ラスコウリニコフの部屋のような暗い陰惨な事務室に、硝子《ガラス》ごしに青葉がうつろい、天井に陽の斑《まだら》がおどって、解剖台を思わせる大きな机のうえに、たった一つ、あまりに周囲とかけ離れた物が置いてある。金に宝石をちりばめた高さ一尺ほどの時計だ。革命のときにどこか貴族の家からでも持ち出したものだろう。十時三十二分。ふと見ると正面の壁にレニンの像が飾ってある。
それからそこに長いこと待たされて、それから何度も同じような質問に返答して、それから、それから、それから――とうとうお前はもう帰れという。滞在をゆるすか許さないか、いずれゆっくり相談のうえで知らせるから――と。
にちぇうぉ! 仕方がないから帰宿。ぶらぶら町を見物する。
夜。競売市《プラアガ》へ行く。共産党が宮廷や富豪の邸《やしき》から担ぎ出した貴重品類を、革命十年後のこんにちまだ小出しにしてこうして売っているのだ。個人が頼んで売ってもらうのもある。講演会のように並んで掛けていると、競売係の役人が壇に立って色んな物を次つぎに指さしながら饒舌《しゃべ》り立てる。ほしい人は手をあげて、五|哥《カペイカ》、十哥、五十哥《パロビイナ》、一|留《ルーブル》、二留三留とたちまちあがってゆく。置物・衣裳・煙草入れ・皿・花瓶・傘・でっさん・敷物・時計、何でもある。五留からは二十五哥上り、十留からは一留あがりである。帝政時代にはつねに宮廷に五万人分の大晩餐用食器が用意してあったそうで、だからこうして毎月曜日の夜、プラアガを開いても種がつきないわけだ。貴族の使った長椅子《デュワン》が十八留で落ちる。何もかも飛ぶように売れていくのを見ていると、露西亜《ロシア》の財政的困窮がうなずけなくなる。ことによると、食べものをたべなくても芝居見物と買物だけはかかさないのかも知れない。にちぇうぉ!
私たちも競《せ》り抜いて二枚の油絵を買った。グジコフ筆「窓の静物」とガボリュボフの「クレムリン」「雪景」。グジコフは人気のある若い静物画家だが、今日のプラアガを当てこみに一晩で塗りまくったものとみえて、まだ絵の具が乾いていない。粗末なアトリエでおなかのへったグジコフがぱん[#「ぱん」に傍点]のために徹夜しているところが表現派の映画面のように心描される。東洋の一旅人がそれを競《せ》りおとしたのだ。なんとぼへみあん[#「ぼへみあん」に傍点]な莫斯科《モスコウ》の一夜であることよ!
第二日の印象。古い器物と家具は露西亜《ロシア》の持つうつくしい幽霊だ。
第三日。
小雨。ホテルに閉じこもってやたらにお茶を喫《の》む。新寺院―― again ! ――円屋《ドーム》が遠く霞んで窓から見るモスコーは模糊としている。雨のなか、ホテルの前のバルシャヤ・リュビヤンカの大通りを「赤い守備兵」の一隊がゆく。赤旗が濡れて、人の靴は重い。常備六十万、戦時百万と号す。莫斯科《モスコウ》市史のうえに眠る。「年代記にモスコウの名のはじめて見ゆるは一一四七年にして、一一五六年大公爵ウラジミル・ドルゴルキイ、市の外周に堀と木塁《もくるい》をめぐらし――。」
第四日。
|朝飯の献立《ザアフトラック》。ズワ・チャイ。アペルシナ。ガリャアチエ・マラコ。ヤイチニツァ・ウェッチイナ。ブウロチキ。マスロ――何だか誰にもわからない。食べたはずの私にも判然しないくらいだから。
第五日。
トウェルスカヤ街五九番に革命博物館を見る。社会運動者の奮闘と度々《たびたび》の革命の犠牲を歴史的にみせて、十月革命の成功におわっている。古い刑具と、死体の写真。レイニンの像。呪詛と反感と狂望と歓喜。ゴウルキイの原稿。ゲルツェンの原稿。地下室に監房と蝋人形の囚徒。秘密運動のじっさい。
この建物は一八一四年に出来たラスモヴスキイ邸宅で、のち英吉利《イギリス》倶楽部になっていたこともある。露西亜《ロシア》革命の博物館だが、ろしあ共産党の歴史博物館でもあり、同時にまたレイニンの
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