ツ人博物館をも合わせているのだ。
 小劇場はきょう革命劇「一九一七年」を上演している。行きたいが今夜はすでに切符が買ってあるので直《す》ぐまえの大劇場へまわる。出しものはプロコウヒフの作曲「|三つの蜜柑への恋《リュボウビ・ク・トリオム・アペルシイナム》」。バレイだ。金ずくめの壮麗な殿堂。座席四千百。左右にもとの貴族席、正面に宮廷席のボックスがある。いまはそこに共産党員とその家族が頬杖をついて、今昔の感あらたなるものがある。日本の故老SK氏なども、近くはニコライ二世が観衆の歓呼に答えたであろう元の玉座から観るのだそうだ。舞台のうえに鎌と鉄槌《てっつい》と麦と星のソヴィエトの大紋章が掲げてある。革命成就と同時に共産党員が押しこんで、旧露西亜の鷲と王冠のしるしを下ろし、かわりにこの労農のマアクをあげたのだという。すばらしい音楽と大道具。割れっ返る声量と衣裳美の夢幻境《ファンタシイ》。幕あいに廊下を歩くと、ここにもいたるところにレイニンの像が飾ってあるのを見る。ハルビンで同じホテルに泊り合わせ、東支倶楽部の舞踊会でも私たちのまえにいた独逸《ドイツ》人の老夫婦が、こんやも私達の前に掛けている。両方で気がついて奇遇をよろこぶ。
 閉《は》ねて出ると、高い劇場の破風《はふ》に、有名な四頭の馬がひく戦車の彫刻が、夜の雲をめざして飛ぼうとしていた。露のおりた石の道を馬車で帰る。霧のなかから浮かび出て霧へ消える建物。ひづめの音。半月。第五日の印象。いまのSSSR、コサックと農民と労働者が美装の史書へしるした大きな黒い手のあとだ。
 第六日。
 終日散歩。古物店をまわり歩く。百貨店モストログの入口で、コウカサスの花売娘がすみれ[#「すみれ」に傍点]の花束を妻のポケットへ押しこむ。おしこんで置いてあとからお金をねだる。苦笑して一|留《ルーブル》を献ずる。
 ダイヤモンド一カロット約三百留。九百留も出せばちょっとしたものがある。ウラルの七宝、ことに銀細工がいい。ロマノフ家の紋のついた皿・洋杯《コップ》・ナイフの類、どこでも安く売っている。
 かえりに路傍に人だかりがしていた。乞食のような男が、生れたばかりの犬の子を売っているのだった。
 第七日。
 昼。トレチヤコフスキイ美術館。
 夜。第二芸術座。
 私の好きな絵はスリコフの「引廻し」とレヒタンの「白樺」、彼女はロコトフ作「見知らぬ人」。
 芸術座ではイフゲニイ・ザミアチンの「蚤《ブロハア》」をやっていた。
 第八日。
 クスタリヌイ博物館と、夜はメイエルホルド座――「証明書《マンダアド》」の今年のシイズンにおける何回目かの上演だ。花道と廻り舞台。木の衝立《ついたて》だけの背景。にせ[#「にせ」に傍点]共産党員の家庭を描いた喜劇で、一枚の額のうらおもてに聖像とマルクスの顔が背中あわせに入れてあったりする。
 第九日。
 トルストイの家――一八八一年から一九〇〇年までの彼の住宅がモヴニチエスキイ通りにある。ツウェトノイ大街のドストイエフスキイ像、農民の家、子供の家、バルチック停車場に近いナポレオンの凱旋門――一八一二―一四年の建造とある。
 夜、カレイトヌイ座にフィヨドル・ゴラトコフの映画「せめんと」を観る。
 第九日の印象。宣伝と革命記念物の洪水。いささか食傷の気味だ。
 第十日。
 猛烈な晴天である。きょうも新寺院の屋根がちかちか[#「ちかちか」に傍点]光って、モスコウ河に巨大な氷が流れている。電車で郊外|雀が丘《ブロビア・ガラ》へ出かける。ここからナポレオンが手をかざしてモスコウの大火を望んだという現場だ。小高い丘の出ばな、真下の野を流れる帯のような数条の川をへだてて、秘都|莫斯科《モスコウ》は日光のなかに白っぽくけむっている。色彩的なクレムリンの塔と物見台、二千何百の教会――ナポレオンが踏んだであろう同じ土をふんでいる私に、いつしか過去の夢が取り憑《つ》いていた。私は聞く、寺々の警鐘を。私は見る、合図ののろし[#「のろし」に傍点]と家を飛び出てクレムリンへ逃げこむ蟻《あり》のような十二世紀の市民のむれを。このいいお天気に、またしても韃靼《だったん》人の襲来だ! イワンは石投げの支度にかかり、ナタアシャは小猫を抱いて泣いている。外壁に立って呶号《どごう》する町の英雄、こわごわ露台《バルコニー》から覗いている王女の姿が一つぽっちり[#「ぽっちり」に傍点]と見える――時間こそは何という淋しい魔術であろう。草の葉が風に鳴って、モスコウ行きの自動車が砂をまいて通りすぎた。
 しずかな部落だ。ツルゲネフに出て来そうな道ばたの家で、茹《ゆ》で玉子を食べる。村の人が四、五人、喫煙と「主義の討論」にふけっていた。
 帰途、電車賃の金をよく見ていると、一発見!――哥《カペイカ》の銀貨にきざんである。「全世界の無産者
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